自然界には本来言葉は存在しない。
ただ悠然と、ありのまま、そこに存在しているだけで、
美しいとか綺麗という言葉に変換する前に、
心で感じるものであって、言葉を使った説明や解釈は
あくまでも人間が勝手につくったもの。
もしかしたら他の動物や植物も、
夕焼けや夜空や海の碧さを見て、
何かしら感じるものがあるかもしれない。
言葉の他にも、国境やお金や宗教も、
人間がコミュニケーションを便利にするために、
つくったものに過ぎない。
便利にするものなら、世界共通の言語がひとつだけ
あればいいのに、不思議と分断して争って消耗して、
世界中が複雑にもつれ合っている。
常々、便利や快適にともなう代償は、長い時を経て
何か大切なことを失わせていると思っている。
そしてそれに気づいた時には、もう手遅れになっている。
抽象的な話になりましたが、
同じ日本語でも、同じ言葉でも辞書を引けば
適切な説明が出てくるけど、場合によっては
それが正解だとは言えないし思えない。
「醤油」や「リンゴ」などの固有名詞は、
それ単体でしか使われないけど、
「愛」や「幸福」などの概念を表す言葉や、
「美しい」や「好き」などの気持ちを表す言葉は、
人がそれぞれ歩んできた人生の、背景や状況、
文脈や前後関係のコンテクストで大きく解釈が違う。
往々にして、人は自分の世界観を相手に押し付けがち。
そのことは実際の経験からも学びがある。
誰一人として辿ってきた人生は異なるもの。
まずそもそもの違いを寛容に受け入れて、
前提となる言葉の意味を、解像度を上げて咀嚼し
互いに理解し合わないと、いつまでたっても
争いの解決策が見出だせないままになってしまう。
時間と労力がかかることになるけれど。
でも思考を巡らすことなく、その作業をとばしてしまうと
後々になって、取り返しのつかないことになってしまう。
便利になるということは、物事を円滑にすることだから、
その考える作業の欠如と、大きく関わりがあるのではと
書いていて思いました。