言葉がつくるイメージに偏っていく無意識

世間から見えるお弁当のイメージは、なんとなくインスタント的なものだと思われているような気がしている。
気軽に食べれて、値段が安くて、すぐに買えて、作って置いてあるといった風に。
本来なら世間のイメージ通りに沿ってお店を設計していくのが、お弁当屋の経営のセオリーだと思う。

今は少なくなったけど、お客様からの問い合わせ内容を想像すると一般的なイメージで当店を捉えているんだろうなと思う節は多々ある。
「今から10個いけますか?」と言われても。
「冷めてもいいから作って置いといて」と言われても。
お弁当1個盛り付けるのに全力で平均3分から4分かかるし、その間の電話がなったりメールの対応をしたり、お会計をしたりすると、さらに仕上がりが伸びてしまう。
局面にもよるけど、作って置いておく時間がまず取れない。
それに冷めてもいいとわかっていても、目の前に常温で長い時間放置されているお弁当を見るのはどうも抵抗がある。
お客様がいつ食べるかは知らないけど、手元にあるうちは神経を使う。
だからといってお客様にそんな内情をいちいち説明はしない。
今までの発信からそういうシステムでそういう人だということを認識してくれている人も多いので。
他にも事前予約制で来店時間もあらかじめ決めてもらえてるのは、冷静に考えてとってもめんどくさくて有難い行動。
いろいろ込みで理解して利用してくれるお客様には感謝の気持ちでいっぱいです。

今回の気づきは「お弁当」という名前がイメージを形つくっているということ。
当店において、提供している料理がポータブルな食事、という意味においては見た目も形状も紛れもなくお弁当だけど、お弁当の外側を取り囲む環境や情報はお弁当的ではないことになる。
だったらお弁当と名乗らない方が、より自分のスタイルが明確になるのか。
きっと既存の言葉には当てはまらない概念だろう。
いや、こんなことを考えても何も変わらない。
そういえば「お弁当」という言葉は意識的に今までも使っていないんだった。

関連記事

  1. ひと手間の瑣事

  2. 言葉といういれもの

  3. 初恋の考察

  4. はじめはそんなもの

  5. 素直さと柔軟さと

  6. 物と喜び