ありがたみに気づけること

人間は良くも悪くも環境に慣れる生きもので、習慣化してしまうとそのありがたみになかなか気づけないものです。
身の回りにある当たり前なことの数々。
水が使えることも、電車が時刻通りにやってくることも、健康であることも。
でもいちいちそれらのことに感謝の気持ちを巡らしていたら時間がいくらあっても足りません。
ついでに社会とは、国家とは、愛とは、などの定義から考えていたら何も生み出さない人になってしまいます。
感謝しつつある程度はやり過ごしながら、次の新しいことに挑戦するのが今まで歩んできた人類の営みでしょう。
ところが当たり前を忘れてしまうのもまた人類の愚かなところです。
新しいコンテンツはどんどん生まれていますし、AI技術がさらにそのスピードを加速させます。
近い将来、人間の貪欲さは当たり前にある環境への想像力を失ってしまうのではないかと危惧しています。

当たり前の環境は何か問題があった時にだけ気づかれます。
水が止まったり、電車が来なかったり、病気をした時など。
もっと具体的に言えば、人間関係の中で起こる別れや怒りや悔しさもそれらに含まれるような気がします。
何かに失敗した時にだけ立ち現れる報われなさや悲しみ。
日々の感謝を確認していれば取り返せてたかもしれない大きく深く広がる溝のようなもの。
でもそんな失敗を経験するからこそ、その傷みに気づくことができるのでひと回り強くなれます。
むしろ失敗のない人生の方が人間としての奥行きが浅そうです。

離れてわかる親のありがたみなんてまさにそうです。
心理的安全性は保つつも、完璧でないくらいの方が教育にはいいんじゃないでしょうか。
答えをすぐに与えるのではなく、自分の力で考える自発性を促すためにも。
そす考えると完璧な親じゃなくてよかったなあと思ったり。
適度な距離感とほどよい加減と。
いろんな経験をして長い時間を経てわかるものだから、無自覚な贈りものかもしれません。
何よりそれが贈りものだと気づける感性が大事ですね。

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