子供の自主性と教育のあり方

大人でも子供みたいとか、子供でも大人びてるとか、このへんの言葉の定義は人それぞれでニュアンスが違うような気がする。
18歳から成人とか便宜上で分けてるだけであって、ある時から急に大人になるわけではない。
自分自身の実体験からも、子育ての経験からも、周りの人の意見からも、子供と大人のあいだにある曖昧な期間が将来を決める上でとても大事な時間だと思う。
最近、今の時代の子供たちはこれからどんな大人になっていくのだろうとよく考える。
デジタルを当たり前に使いこなすのはもちろん、学校と習い事の往復で教育が過密すぎて自由な時間が少なくなっていることが今後どう影響するのか。

文化人類学とは、主に発展途上国や未開の地に行って実際に生活することで、現地の文化や風習を研究するという学問分野。
子供という概念の捉え方は国によって様々だけど、この本の中で大きく先進国と違うのは子供が(いや大人も)自信に満ちて生き生きとしていることだと言っているのが印象的だった。
大人が子供に教える、誰かに教わる、教えられる、という関係性がないのも驚きで、それは子供が自ら大人の姿を見て真似て自主的に覚えるということ。
それができるのは時間があるからこそ、という考察に納得しかなかった。

現代では与えられる教育、詰め込み型の教えられる教育で幼児期から大学、就職へとなんとなく忙しない人生設計が組み込まれているような気がする。
自主的に創意工夫をして内省する期間がないとうか。
そのことが若い世代のやりたいことや目標を見つけにくさせているのではという気づきがあった。
今は大人も時間に追われていて、やるべきことも多く、おもしろいコンテンツも溢れていて、無駄に忙しくなっている。
自分自身でもそう感じる。
一人の人間が処理できる本当に必要な情報はそんなに多くないはずなのに、どんどん欲しがる本能にテクノロジーが最適化してくる現代社会。
これからやってくる不確実な時代に必要なのは自主性なのに、子供のうちにそれが養われない時代になっていることにジレンマを感じてしまう。
時代には逆らえないけれど、親がいい見本となることはまだ可能性が残されている。
教える教育ではなく、姿勢や生き方を見せる教育。
教育の大切さをあらためて実感した。

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