わからなさを受け入れる

介護や福祉の問題は周りの話を聞いている限り大変そう。
これからやってくる高齢化社会については、あまり当事者意識がないので実感としてわかりにくい。
“ぼけ”というぼんやりした言葉も、“認知症”という医学的なカチッとした言葉で呼ばれるようになり、どこか認識だけが先走って大層になっているような気がする。
症状を説明する言葉なのになぜか重い病気のよう。
施設で介護を受けるような高齢者にとって生きる目的や喜びはどこにあるのだろう。
ついついそんな風に考えてしまうのも野暮なだけかもしれない。
自分の身体が思うように動かない感覚と、介護者と意思疎通できないもどかしさと、お世話になっている後ろめたさは、おそらく健常者には到底想像ができない。
それでも相手のことをわかろうとする姿勢や、理解したいと思う気持ちがあれば根気良く向き合えるものだとも思った。

大体の人が自分を中心に世界が回っている。
長い時間をかけてコミュニケーションをとったにも関わらず自分のことがわかってもらえないと悲しいし、そんな気持ちを抱いてしまうことも相手に期待してしまってるからこそで行き場のない感情は一人で勝手に苦しくなっていたりする。
頭ではわかっていても与えた行為に対して、思うような反応が返ってこなかったとき違和感を覚えてしまう。
“利他”とは簡単に説明できる概念ではないけど、自分の意思を超えてつい身体が反応してしまう誰かに対しての積極的な行為。
歳を重ね、心と身体性が徐々に乖離していく感覚、つながっていたものが裏腹に離れていく様。
介護の場面から語られる利他はとても学びの深いものだった。

どこまでいっても自分以外の人のことは、たとえ親子であっても永遠にわからないもの。
相手のいろんな過去の出来事から今に向けて一本の線を引いてわかった気になってしまう。
こうに違いないとか、こうあるべきだとか、こうしてほしいとか。
いかに自我をなくし、煩悩や執着をなくし、利他の精神を高めるか。
それができないからこその人間らしさでもあるので、取り立てて目指さなくていいのだけど。
わからないものという前提で、わかりたいという前向きな気持ちでいること。
人と人の関係は本当にむずかしい。

*何か考えてほしいテーマがあればお気軽にお声がけください。
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