誰かや何かに憧れるということはとても大事なこと。
同時に自分が何に対して関心があり興味があるのかがわかる指標にもなる。
憧れの周りにある抽象的なことを言葉に落とし込めれば転用もできそう。
そうして言語化できればいいけれど、無理にしなくてもいいような気がする。
その感情が備わっていることが重要で、憧れの対象がないとなると人間としてのあたたかみに欠けるのでは。
目標がある、目的がある、そうなりたいと思う気持ちが自然と周りの情報を集めて意識も高まっていく。
足りないものを埋めたくなるのは人間の本能であり、それが欲求というものだと思う。
また欲求はどこまでも埋まらないのが厄介で人間の愚かなところ。
お金や時間や名誉なんてなんぼあってもいいですからね。
憧れも同じようなもので、誰かや何かに憧れすぎて自分を見失ってしまうのは本末転倒なので、あくまでも理性の範囲でとどめておくのがいい気がする。
個人的な憧れの対象は、広く言うと“生き様”を見せてる人で、結果を出してると言うよりも立ち向かう姿勢そのものがカッコよく映る。
言葉にするなら、新しいことに挑戦している姿だし、社会のことを考えている姿だし、未来がよくなることを信じている姿だと言える。
お金でものを言わせてるようなギラギラしてる人にはまるで憧れない。
人は否応なく自分の憧れの対象に強く影響を受ける。
それは結局のところどこに身を置くかが大事で、環境がもたらす影響で人格なんてほぼ決まると言ってもおかしくない。
自分の憧れが明確ならその環境の近くに行くことがはじめの行動としては合理的な気がする。
ここにいてはいけないと思うなら、今すぐ動かないといけない。
憧れはどうして生まれるのか。
自分が大切にしたい価値観や進むべき道を示してくれるサインのようなものではないでしょうか。
それに気づける感度はなんぼあってもいいですからね。
*何か考えてほしいテーマがあれば気軽にお声がけください。
質問フォーム