表現の行く末

表現とは自分の内側にあるものをアウトプットする手段で、人間に等しく与えられたもの。

とはいえ表現することが絶対的な正解だとは限らない。

苦手な人もいれば何をしていいかわからない人もいるだろう。

でも思ってることを声に出して話すことは最小単位の表現だとも言える。

表現も欲望の一種だと思っていて、人によって差があったりする。

道具の存在によって可能になった人間の身体拡張性に前からとても興味を持っている。

身体拡張によってできることが増えることに心地よさを感じることは表現と関わりがあるような気がしてならない。

ペンを使って紙に文字を書くこと。

楽器を使って音楽を奏でること。

包丁や鍋を使って料理を作ること。

道具を使うスポーツもある意味で身体拡張から生まれる表現で、自動車を運転することも飛行機を操縦することも表現の一部だと思う。

人間は身体拡張に喜びを感じる生きものなのだ。

ここへきてデジタルという道具で身体拡張の実感がどう変わるかに問いが生まれる。

前述の身体拡張はどれも物理的な道具であるのが共通点で、あらゆるものがデジタルに置き換わってきている現代社会に人はどこまで喜びを見出せるのか。

読書も本という道具を使って読むという身体拡張の表現をしているとするならば、デジタル読書に違和感を覚えることに説明がつきそうな気もする。

自らの身体を使って表現することはどんどん減っていっている。

デジタルで絵を描くのはもはや当たり前、自動運転になってしまったら道具と接触する機会もなくなってしまう。

身体拡張を忘れた人間はこれからどうなるのか。

料理は一番身近な身体拡張の表現に思うのだけど、ホットクックはその貴重な体験までを奪ってしまうのだろうか。

時短の勢いが止まらない。

*何か考えてほしいテーマがあれば気軽にお声がけください。
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