無理するしないの境界線

無理をする、無理をしない、はとても曖昧なニュアンスが含まれている。

その度合いはきっと人によって違うはず。

コンプライアンスが厳しくなって、無理をしないように、と言われることが多くなったけど、何かを成し遂げるためには多少負荷をかけて無理をする場面も必要だと思う。

バネのように負荷をかけるからこそジャンプできる。

そのバネが太かったらたくさん負荷をかけても大丈夫だし、細かったら折れてしまう。

要するに自分の状態や許容量によって無理の量も変わっていく。

人は歳を重ねるごとに成長していくし変わっていくし強くなっていくもの、と思う反面で根っこにある性質や性格はいくつになっても案外変わらないんじゃないかと思ったりする。

誰しも幼少期の体験や環境の影響は心に深く根ざしている。

それでもそれなりに無理をしないと、社会全体は回っていかないし、きっと生きていくのもむずかしい。

みんなが無理をしないで生きていけたら世の中の秩序は乱れそう。

インフラを支えている人たち、エッセンシャルワーカーと呼ばれる仕事をしている人たち、好きでやっている人もいるだろうけど、無理を受け入れ生活のためだと割り切って働いている人の方が多いような気がする。

誰でもできる仕事、自分にしかできない仕事、この境界線も曖昧だ。

人がひとりいなくなったところで世界は回っていくので、全人類が何者でもないのかもしれない。

どこまでが自分にとっての無理なのかは、ある意味でその線を超えた経験からしか学べないことでもあるのでは。

無理をして、壊れてみて、はじめて自分を知る。

次から無理をしないでおこうと思えるのはそういった経験が教えてくれることでもある。

そう考えると、無理をすることは、苦労や挫折や悲しみなどに構造が似ている。

それがあってこそ成長できること。

ないに越したことはないけれど、あった方が人間に深みがでる。

でも、大変なはずの無理もなんなくこなしながら上手に生きてる人を見ると、ただただ羨ましく思えるばかり。

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