お店にしても、食材にしても、はじめて食べたときに自分の中の基準ができてしまう。
はじめて訪れたお店が、たまたま人手不足でぞんざいなサービスと料理だったとしたら、いくら評判が良かったとしても、タイミングが悪ければ美味しくないお店と認識することになる。
はじめて食べた食材が、たまたま質が悪くて、調理方法もそれを活かしきれてなかったとしたら、美味しくない食材として脳は覚えるだろう。
それくらいはじめての体験というのは基準値となり今後の認識を大きく左右する。
そして突き詰めればどれも外的要因なので自分でコントロールすることができない。
いい出会いは運命で決まってしまう。
今まではわりと食材にはこだわってなかった。
いや、こだわってないと言うと語弊があるけれど、お弁当やテイクアウトというジャンルの性質上、商品単価を高く設定できないため、いい食材は値がはるためこだわりたくてもこだわれなかったが正しい表現かもしれない。
(それでも限りなくはこだわっていた)
それに料理は、調理技術や見せ方、盛り付けなどで美味しさをある程度カバーできると思っていた。
食材がどこどこ産のなになにと言われても、その土地にゆかりがないと正直なところいまいちピンとこない。
丹波の黒豆、神戸牛などマーケティングに成功したブランド食材が、認知の段階で美味しいと錯覚させる。
だから食材が持つ本来の美味しさを(程度の差はあるにせよ)少し侮っていた。
しかし、今回の旅で出会った食材はまっすぐな美味しさを訴求してきた。
生命力も素晴らしいけれど、奥行きのある味わいは心を動かすものがある。
ひとえに生産者の“想い”なんて言葉で片付けられないほどの感動があった。
そして何よりも現地でそれらの食材をいただいたことが重要だと思った。
今では全国どこでも流通があるので、いつでも美味しい食材を簡単に手に入れられるけど、やっぱり不思議とありがたみに欠けてしまう。
食材なり人なりの距離の近さは鮮度以上に、何か大切なことを秘めている。
新しい気づきのあった今回の体験のあと、スーパーの食品を見るとどれも死んでいるようにさえ見えた。
今までそれで満足していた自分を今更ながらに恥じてしまった。
でもこれもまた運命だろう。
いい出会いはコントロールできないけれど自ら動いてみないと何も始まらないことを知った。