無責任の効用

最近は社会の目が厳しくなってきているような気がする。

してはいけないことが増え、説明を求められ、責任を取らされる。

失敗が許されないというか。

いわゆる自己責任論みたいなのが生きづらさを助長しているのではないか。

人生の選択肢が増え、主体的に選べるのは自由そのものだけど、失敗しても無条件に帰ってこれる場所や守ってくれる人が減ったように思う。

昔に比べれば家族の在り方も変わっている。

自分で選んだのだから自分で責任を取りなさい、は一見すると自立を促しているようだけど、当事者に残る一抹の不安は拭えない。

価値観が一方向だった時代は、みんなが同じ方向を目指せて、みんなと同じようにしていたら幸せだった。

競争に勝って成功する、結婚して子宝に恵まれる、そんなわかりやすい幸せが人生のロールモデルとして用意されていた。

今は価値観も多様性と呼ばれて久しく、個々の幸せを追求すればよくなったけど、先述のように自己責任の問題に行き着く。

誰かにアドバイスを求めようにも、相手も忙しくて時間が取れなかったり、時に対価が発生したりして孤立していく。

きっと何でもかんでも時間やお金で解決してはいけない。

もっと大雑把に、大丈夫だと言ってもらえること、味方でいてもらえること、安心できること。

そんな無責任でもいいから信じてくれる人がいるだけで、新しいこともやってみようと思えるのではないか。

古くは宗教や信仰がその役割を果たしていたのかもしれない。

データやエビデンスではなく無条件に安心できる居場所のようなもの。

占いみたいに、自分にとっていいことが書いてあると不思議と嬉しくなるように。

たとえ無責任でもただただ応援してくれ、味方でいてくれるような存在が一人でもいるだけで、心というのは救われるのだと思う。

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