時代が変われば常識も変わる。
昔は料理のレシピが重宝されていた。
秘伝のタレや隠し味みたいなものが、そのお店の美味しさを特徴づけるキャッチコピーだった。
ぼくも料理を始めたばかりの頃は、目の前で見ている料理のレシピがわかるだけで何かひとつ前に進めた気がした。
それは時代背景的に築いてきた文化を守る姿勢でもあったように思う。
希少性の高いものは価値も高い。
当時は中に入って修行をしないと教えてもらえない環境だった。
翻って今は料理のレシピはどこにでも溢れている。
情報技術の発達でオープンになった食文化は、シェアされて拡散されることを第一に優先されている。
同じレシピ、同じ味を共有することで関係性がつながっていく。
テクノロジーの登場で解釈が変わり時代が変わったということに過ぎない。
修行という概念もまた変わりつつある。
2ヶ月で寿司の技術を習得できる学校もあれば、手軽に無料動画でも技術を学ぶことができる。
料理の修行なしで独立する人もいるくらいに。
たしかに技術的なことは実際に教えてもらわなくても、動画を見て練習を繰り返せば一通りできるようになる。
(若いころは大根の桂剥きやオムレツをよく練習したものだ)
修行の在り方が変わってるのはわかるけど、技術だけを習得しても料理、もしくはお店を営むことはそんな短期間でできるものではないと思う。
お客さんとの会話、何かあった時の対応、段取りや動線の美しさ、食材の管理や衛生面、業者さんとの関係づくり。
考えないといけないことがたくさんあって、それを身につけるには時間をかけて、毎日同じ繰り返しの中で、目で見て、肌で感じ、身体で覚えていくものだと思う。
だから修行はある程度必要だけど、皿洗いや雑用を一年するとか無駄に長すぎる修行は必要でないので、ちょうどいい塩梅が大事になってくる。
そして何より修行の本質は技術なんかより、そのお店を作った人の考え方や姿勢、生き方そのものをインストールすることに意義があるのではないだろうか。
それは画面越しではなく、間近でいいところも悪いところも含めてその人の息づかいを感じないとわからないものだ。
その基礎となる思想は、たとえ料理から離れようとも、今後の人生において重要な指針になりうるものだから。