おそらくどんな人もしあわせになろうと目指して生きている。
これは理性ある人間だけに与えられた特権だと思う。
それでいてしあわせという概念に真実はない。
何にしあわせを感じるかは千差万別、人によって違う。
仕事終わりにビールを飲むときのしあわせ。
欲しいものを買ったときのしあわせ。
美味しいものを食べているときのしあわせ。
好きな人の寝顔を見るときのしあわせ。
日常で味わえるしあわせもあれば、がんばって手に入れるしあわせもある。
仕事で成功するしあわせ。
お金持ちになるしあわせ。
名声や権力を手に入れるしあわせ。
承認欲求を満たすしあわせ。
結婚して家族をつくるしあわせ。
前者を小さなしあわせ、後者を大きなしあわせだとすると、後者はある程度がんばって手に入れるものだから、手に入れてる人を見て羨ましく思ったりする。
社会やメディアがそれを取り上げるので、多くの人にとってのしあわせだと錯覚する。
それに大きなしあわせは数値化しやすので、わかりやすく比べやすく競争になり勝ち負けで評価される。
大きなしあわせは失うリスクも孕んでるので、余計に価値が高いのだろう。
でも実際はしあわせに大きいも小さいもない。
たとえ無名で何者でなくても、本人がしあわせだと認識しているなら、それは人間であることを全うし、人生というかその瞬間を達成している。
どれだけ周りが、もっとよくなる方法を提案したとしても、本人がしあわせなら何も言う筋合いがない。
でも世間は往々にして、大きなしあわせを手に入れた人たちが主に、まだしあわせでない人に対して手招きをする。
こうしたら儲かるよ、とか、結婚したらしあわせになるよ、だとか。
さらに社会やメディアもそれらを促す。
翻弄されてはいけない。
本人がよく考えた上で、すでに望むしあわせを手に入れているなら、それ以上はだれも何も言う権利がない。