インターネットの登場から社会の在り方や価値観は加速度的に変化している。
新しいテクノロジーは日ごとにアップデートされていて、ついていくのがやっと、どころか置いていかれてるような気もする。
横文字の応酬と情報の氾濫で覚えることも多く、人間の記憶できる容量はすでに限界なのかもしれない。
心配なのは新しい技術が生まれて便利になるということは、それに慣れてしまうともう元には戻れないということ。
今さらスマホのない生活には戻れないように。
少なからずスマホがない時代にもよかったことはあって、映画館で映画を観る体験や、手紙でやりとりする情緒で引き起こされる感性の振動は今の時代よりも高かった。
当たり前になったからこそ当たり前にできないことに価値が生まれることもあるけど、そこにはなんとなく空虚さを感じてしまう。
もしくは大切なことが抜け落ちているという感覚。
死者をAIで蘇らせたとしても、満たされる感情は間に合わせ的で、偲ぶ気持ちや自己の内面の成長を奪っているような気がしてならない。
人の弱さにつけ込むビジネスが、あたかも優しい顔をして忍足でやってくるだけだ。
人間はその時代の社会や価値観に大きく依存しているので、加速度的に変化しているということは、人の考え方も同じように変化してもおかしくはない。
一方で、一貫性や自分軸みたいな言葉はどこか変わらないことを美徳としている傾向があるように思う。
前に言ったことと違うことを言ったら非難され、間違いのレッテルを貼られる。
お金の稼ぎ方ひとつとっても、前時代的ないい大学に入っていい会社に就職するよりも、その方法は細分化され多様化している。
若い世代でSNSをハックして大金持ちになった人がたくさんいるように。
そうでなくとも、あずかり知らないところで急に主役になれることだってある時代なのだ。
そんなときにブレずに自分を保ってくれるのが、大切なことを大切だと認識していることだと思う。
人としての在り方、思慮深さ、倫理観、の類を持ち合わせていなければ、よからぬ時代の波にのまれてしまう。
変化の時代に人も否応なく変わっていく、いや変えられていくので、変わっていくことを受け入れつつ、大切なことを見失わないような見識が必要なのではないだろうか。
正しい心、良心、といういニュアンスで本心という言葉を解釈した。