生きづらさについて

少し前までは人生設計に模範解答があった。

就職をして、結婚をして、子供を産んで、家を買って、余生をのんびり過ごす、なんて。

まだ余生を味わえてないけれど、ひと通り経験して思うのは、それなりに満足をしてるということ。

同時に環境に恵まれて運がよかったとも思う。

そしてある意味でそのように思い込まされていた、だけだとも思う。

親族の助言、メディアの影響、信じて疑わなかったライフプランが目の前に用意されていた。

その説明書通りに進んでいけばそれでよかった。

選択肢も少なかったし、世界も狭かったし、知識も持ち合わせていなかった。

それでもそれなりになんとか生きているのは、当時の人生攻略が今よりも簡単で答えのパターンが少なかったから。

 

インターネット革命、物事の細分化、選択肢の多さ、国の貧しさ、暗闇の未来。

現代は行く手を阻むものが多すぎて、スムーズに前に進むことができない時代になっている。

メニューが多すぎたらなかなか決めれないように、選択肢が多すぎると迷う時間が長くなってしまう。

ビジュアルがよくて、コミュ力が高く、言語化が上手で陽キャな人がSNSでも活躍しやすく、そんな人たちが目立つことで無駄に劣等感を抱きかねない。

いろんな新しい仕事が生まれ、就職しても会社がいつ倒産するかわからない。

安定はどこへやら、臨機応変に、柔軟に、世の中をサバイブする能力を求められている。

溢れる情報の中から的確さを選ぶ判断力、そのための知識は義務教育では教えてくれない。

多様性の気運はいいことだけど、子供の不登校問題は経験したことのない親御さんの頭を悩ませる。

要するにこの世界を、この社会を攻略する難易度が高くなっていることは確かだ。

もし自分が今の時代に生まれ落ちたなら攻略できる自信がない。

とはいえ可哀想だと同情するのもまた違う。

できる限り理解を示し、寄り添い、本来の能力を引き出せる環境を整えるのが年長者の役割だと思う。

そのためにも知識や知恵、それを仕入れる時間の余裕が必要なので、これまた難易度が高い。

 

今生きづらさを抱えている人がたくさんいる。

人のことが言える立場でもないし、ある意味当事者でもあるし、不確かな未来にこれが正解だと言える権利もない。

あれやこれや考えることができるのは豊さの象徴かもしれない。

とりあえずできることは適度な運動と美味しいごはんを食べるといいと思う。

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