あらゆる概念が人間の認知を規定する。
幸福という概念がなければ幸せを感じることができないし、愛という概念がなければ愛情を感じることはできない。
概念は新しく生まれるものなので、それ以前は認識のしようがない。
それにその時々の時代や社会でも概念は変わっていく。
今当たり前なことも当たり前ではなくなっていくことがある。
コンプライアンスやマナーの領域がどんどん厳しくなっているように。
子供という概念も同じで、昔は愛情をかけて育てるとか、立派になってほしいとかではなく、ただの労働力に過ぎなかった。
現代のように仕事と生活が分離していなかったし、生きていくために子供の存在が必要だった。
しかも医療が整っていない時代だから、早く死ぬ子供も多く、より多く産めば産むほどよかった。
自分の子供が誰だかわからないくらいにコミュニティ全体で生き抜くことが最重要課題だった。
翻って豊かな現代では子供を産まない人も多く、仕事が優先であったり、経済的な問題で躊躇したり、一人時間を楽しめるコンテンツが溢れていたりと、いかにも今っぽい社会背景によって子供を産む理由が見つからなくなっている。
生きづらく、大変でしかないこの世界に子供を産み落とすのは親のエゴではないかと。
子供は可愛い、子供の成長を見たい、子供との暮らしが幸せ、あるいは面倒を見てもらえる、は確かに親側の視点でしかない。
経済学者が言っているように、世界人口は2080年半ばで103億人でピークを迎え、その後は減っていくそうだ。
高齢化社会で先をいく日本において人口が減っているのは、最先端の事例ではないか。
インフラが整っている豊かさの裏側で実態は貧しくなっているということだろうか。
楽しいことがたくさんあり過ぎて苦労してまで子供を育てる必要がなくなっていくのだろうか。
そんな兆しがもうすでに見え始めている。
今の若者たちに子供を産む的確な理由を言える人はどこにいるだろう。
人類規模で思いを馳せるか、地球の存続を願うかだったら子供を産む正当な理由になるけれど。
生物的に、本能的に、無意識的に子供を産む使命みたいなものは誰にでもきっとある。
そんな生命の摂理に抗うほど、その時代のその社会に人間が影響を受けていることに他ならない。
今がその境目であるような気がする。
子供にとっての幸せはどこまで親の責任があるのでしょう。