純粋な表現

身体が代謝の繰り返しでできているように、情報に対して脳も代謝が必要だと思っている。

脳にも新しいスペースを作らないと、新しい情報が入ってこない、もしくはすぐに忘れていく。

情報が溢れ過ぎている時代に本当に必要な情報はそう多くはないはず。

刺激的で続きが気になるようなコンテンツはプラットフォーマーのアルゴリズムの奴隷でしかない。

現代はインプットばかりする環境になっている。

脳も代謝が必要だとしてインプット分のアウトプットができているだろうか。

人に話す、日記を書く、絵を描く、料理をする、ものを作る、いわゆる表現ができるということは人間に与えられた特権であり、そこには自由もある。

表現は心と身体に安定をもたらす。

それはなにも仕事でなくてもよくて、趣味でもいいから何かしら表現することは精神的にも重要なことだと思う。

心と身体のバランスを保ってくれるというか。

ところが表現するとなると、他者の目に触れることになるので、どうしても評価がつきまとう。

というか自分の表現が正しかったのかが気になってしまう。

SNSで言えばいいねやフォロワー数がその指標になるし、おしゃべりにしても料理にしても相手の反応が気になってしまう。

外の場に出ただけで市場原理が働き、競争が生まれる、という社会の仕組みになっている。

そして次第に突き詰めた自分の表現というよりも、他者からよく思われたい、という気持ちの混ざった表現になってしまう。

というか評価が怖くて、自分に自信がなくて表現をしない人が多いように思う。

表現は重要、でも評価が気になってしまう、なら自己完結している表現がいい。

車を運転しながら一人で歌う、誰にも見せない日記を書く、無目的に絵を描いてみる、読書の感想をメモする、など何かしらのアウトプットはだれにでもできる。

それらをSNSで発信してしまうのは承認欲求が気持ちいいから。

それだとどこまでも純粋な表現ではなくなってしまう。

ただ自分のためだけに表現をする、そんな機会が心の健康を保つのではないだろうか。

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