この社会はその行いが誰かや何かの役に立つことを善とする共通理解があるように思う。
それに教育の目的が国民国家をまとめるためとはいえ、人としての善き行動を身につけることを本質としているのかもしれない。
そもそも役に立つとはなんだろう。
困っている人を助ける、地域や社会に貢献する、家族を大切にする、相手に喜んでもらう、人類を前に進める、など目の前の小さなことからスケールの大きなことまで、自らが与える行為で相手に感謝される、今よりもいい状態に、という文脈で語られる。
そうだとして、果たしてみんながみんな役に立つことを目指すべきなのだろうか。
空気感として、役に立たないといけない、という見えない社会圧や風潮があるような気もする。
なんの役にも立ってない人はどこか居心地が悪くなる。
今のビジネスや社会では、特に早い成果を求められる。
いかに生産性や効率を上げるか。
いかにコスパよくタイパよく社会に貢献するか。
それが未来の役に立つことだけをやる、ばかりになってしまうとどこか人間味に欠けると思ってしまうのは気のせいだろうか。
売上がどうこうとか、今やってることに意味があるのかとか、ビジネスビジネスしてる人にどうも苦手意識がある。
今すぐ役に立たなくても後で役に立つことは往々にしてあると思う。
読書とか、健康意識とか、身体にいいものを食べるとか。
わかりやすく言うと、農業と漁業の違いかもしれない。
いい作物を育てるには今やるべき手入れか、マーケットを呼んで狙いを定めるか。
後で役に立てようと思ったら今役に立たないことをしないといけない。
ところが忙しい現代社会は時間に余裕がなく、意味があって実利のあることを優先してしまう。
ある意味で目先の利益ばかりを追い求めていいたら、皮肉にもいつまでも目的にたどり着けないのではないか。
意味のないことをする、役に立たないことをする、リラックスをする、ストレスフリーになる、が意外と重要だったりするのでは。
いつ役に立つかわからないけれど、未来で何の役に立たないのかもしれないけれど、意味とかは案外いくらでも後付けができる。
というか今やってることの全部は過去の後付けでしかないような気もする。
いつ芽が出るかわからないけど、種を蒔かないことには何も始まらない。