困っている人を助けるとき、その行動に至る感情はどこからくるのか。
心の底から、もしくは無意識に生まれる親切からなのか。
お返しを期待した損得勘定が含まれる打算なのか。
人類の歴史を辿ってみて読み解けるのは、親切も打算も切り分けて考えることはできないということ。
それでも人間の理性はテクノロジーの発展により高度化して民主化している印象だった。
たとえば大きな災害が起きてすぐに行動できる人や寄付をする人の場合、実質的な見返りはないにせよ、その行動をとった自分が周りからどう思われるかが多少なりとも含まれている。
電車で席を譲るようなとき、忘れ物を届けるとき、社会の中で他者と関わっている以上、誰にでもそんなシーンと出くわすときがある。
いい人と思われたい欲求がゼロの人はいないと思う。
それにいい行いをした後は気持ちよさも残る。
自分が得る気持ちよさも一種の打算だと言えるだろう。
日本人は特に規律をしっかり守る文化があるので、助け合いの精神が備わっている。
たとえ打算であろうとも相手が満足してるならばそれはそれでいいこと。
その行動をとったことに意味があるならば結果オーライだとも思う。
嘘でも善き行いをして称賛を得ることは“偽善”という言葉とも似ている。
偽善もまたイメージは悪いけど、それによって喜んでいる人がいるならどんどんすべきだと思う。
誰を親切にするか。
その範囲も重要だ。
家族や身近な人だとしやすいけれど、嫌いな人にはしにくいだろう。
誰を仲間だと思うか。
同じ国の人なのか、同じ民族なのか、同じ宗教なのか、分類の仕方、認識の仕方によって行動も変わってくる。
みんなが人類を仲間だと思っていたら戦争は起きないだろう。
みんなが生命を仲間だと思っていたら環境破壊も起こらないだろう。
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大昔の方が打算的だった。
獲れすぎた獲物は食べきれないので仲間に分けて、自分が獲れなかったときの恩を期待した。
それにすぐ近くのコミュニティは敵だった。
文明が発達して宗教ができると人を助けることはいいことであり救われることだと説かれ、次第に親切心がインストールされていった。
今やインターネットによって世界はつながり、過去の失敗に学び、クラウドファンディングでも支援ができるように、行動のコストが下がり仲間の範囲が広がってるように思う。
たとえ打算であっても対象が誰であっても親切をするにこしたことはない。