表現の嘘

表現と言っても幅は広い。

何かを作ること、絵を描くこと、料理をすること、文章を書くこと、SNSで発信すること、人と話しをすること。

芸術家に限らず誰もが何かの形で日々表現をしている。

そこには正義も悪もなく人間には等しく表現する自由と権利が与えられている。

 

とはいえ表現には、自分の内側から湧き起こる衝動のようなものと、外側との関係性に影響を受けているものと、2パターンに分かれると思う。

心の赴くままに絵を描く、自分の作りたい料理を作る、自分の意見を言う、などは内側からの表現で、バズるような文章を書く、トレンドを意識した発信、相手の意見に同調する、クライアントの機嫌を伺い忖度する、などは外側に向けた表現、というふうに。

 

昔のメディアといえば新聞、テレビ、雑誌など、一定の知識層、または権威のある人たちにしか表現の機会が与えられなかったけれど、インターネットの登場で一般人まで気軽に表現ができるようになった。

ユーチューバー、インフルエンサー、一般人にも平等に活躍のチャンスがあるのはとてもいいことだと思う。

でもそれらは外側の表現が多いのではないだろうか。

マーケットやアルゴリズムをハックするかのように表現をしているので、自分の内側の衝動や信念に根ざしていないがゆえ、短命で入れ替わりも早い気がする。

情報過多なのもあるだろうけど。

要するに外側との関係を偏重するあまりに、心を動かしてくれる表現が少なくなってきている。

 

沸々とした衝動や信念を見つけるのは簡単ではない。

もはや見つけようと思って見つかるものでもない。

それなのに好きなことをして成功してる人ばかりにスポットライトが当たるから、そうしないといけない風潮がなんとなく社会圧として何者でもない人たちを覆っている。

中身が空っぽな表現は純粋さに欠けているので嘘と言ってもいい。

今はそんな表現が溢れている。

そんな空気に嫌気がさしているのは自分だけだろうか。

そう言いながらSNSで情報発信という外側の表現をしないといけないのだけれど。

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