純粋な行為

夢中になってできること。

やりたくてやってること。

がんばらなくてもできること。

自分の内側から生まれる衝動。

それらは損得勘定ではない純粋な行為であり生きている実感を伴う。

趣味または仕事でそれが見つかってる人はどれくらいいるのだろう。

どんな行為にせよ他者評価を意識してしまうのが一般的ではないだろうか。

新しい服を身に纏うのも、新しい車に乗るのも、新しい家を買うのも、仕事で成果を出すことも、SNSで発信をすることも、何かしら評価や承認を気にして生きている。

伝えたい、届けたい、わかってほしい、理解がほしい、はどれも他者を必要としていて、本当の意味で純粋にその行為に及ぶなら、自分の中だけで完結していてもおかしくはない。

この文章もSNSのプラットホームこそ利用していないけれど、こうしてホームページにアップロードしているということは、人の目を気にしているからに他ならない。

純粋な行為であるなら誰にも見せない日記ですむはずなのに。

 

それでも人は共有や共感をほしいのがホモサピエンスの特徴でもある。

他者を意識した瞬間から表現という行為に変わる。

書くという表現、料理という表現、どちらも読む人、食べる人がいてこそ成り立つ行為だ。

ある意味、他者の反応を意識している時点で純粋な行為ではなくなる危うさが潜んでいる。

言いたいことが伝わっているだろうか。

美味しいと思ってもらえるだろうか。

それらの表現はもっとこうしたら喜んでもらえるかと顔色を窺うことにもなりかねない。

仮想の顧客、市場に合わせるように行動が偏っていくのも資本主義社会の特徴だろう。

 

他者を意識しない純粋な行為の方がエネルギーは宿ると思う。

誰にも侵略できない領域がそこには存在している。

いたらなさ、悔しさ、強い想い、過去のトラウマ、ときには怒り。

そんな源泉こそが純粋で強度のある表現を生むのだろう。

きっと意識してできることではない。

意識した時点で消えていくもの。

それを超えて自然と生まれるのが本物の表現なのだ。

矛盾しているようだけど本物の美しい表現こそが他者からの賞賛を得られる。

関連記事

  1. 流れるもの

  2. さらに見えない敵

  3. わからなさをつないでいく

  4. 心にまつわる仕事

  5. 高いのは困りますけど

  6. 自己嫌悪という種