知性とは頭の良さやIQ、または学歴や肩書きで語られることが多いけれど、当然それだけで人間の良し悪しや優劣が決められるわけではない。
でも今の社会は、特に言語化や目標設定やキャリア設計が大切とされていて、それらが得意な知性の高い、いわゆるエリートな人たちが世界を牽引しているような印象がある。
たしかに資本主義というゲームルールでは知性という武器が生き残る上で一番有利なことには間違いない。
知識が豊富なほど人生の選択肢も広がる。
何ごとにおいても知らないより知っている方がいい。
だからと言って知性の低い人は頭が悪い、と決めつけるのは間違っている。
中には知性のマウントをとってくる人がいるけれど。
世の中にはいろんな知性があると思う。
たとえばインスタが得意な人。
勉強はできないかもしれないけれど、どんな写真を使うか、どんな文章にするか、投稿の頻度、お客さんとの関係の築き方、どんなコンテンツが反応いいか、などなどいろんな事象を考えてうまく収益化しているなら、それは立派な知性のうちのひとつだ。
同じようにテキストでも動画でも、活躍できる場が多様化しているので、自分の知性が時代にうまくはまれば才能が開花する可能性がある。
他にもスポーツのように身体を使って人より才能を発揮できるのもひとつの知性だろう。
みんなそれぞれに持っている知性なのに、お金にならなかったり、評価されなかったりで諦めざるを得ないことにもどかしさを感じる。
それほど頭が良くて、社交性があって、お金を稼ぐのが上手で、言語化がうまくて、わかりやすく話せて、コミュ力の高い人の方が、今の社会では圧倒的に生きやすい。
それもひとつの知性だから決して僻んでいるわけではない。
つまるところ頭脳的な賢さだけが知性ではなく、それぞれの得意なことも知性だと思えるということ。
繰り返しになるけれど、どちらが正しいとか優れているとかでなくて、今の社会がひとつのものさし(特に数値化できること)でしか測れていないことを憂いている。
何かしら基準が必要だから仕方ないのだけれど。
感性を使って料理ができることも知性であっておかしくないと思うから。