可哀想だなんて簡単に言えない

児童養護施設の日常を描いたドキュメンタリー映画。

世の中には知らない世界がたくさんある。

何をきっかけにそのような世界に触れるか。

興味を持って自分で気づくのか、誰かに誘われるのか、不意に直感がはたらくのか。

そんな偶然が人生を変えることもあったりする。

後から振り返るとそれは必然に変わったりもする。

いつもとは違う目線で世界を見ること。

映画だけでなく芸術はそのような機会を与えてくれる。

 

家族とは何か。

そんな抽象的で大きなテーマが鑑賞中、頭の中に錨を下ろした。

血が繋がっていること?

一緒に生活をしていること?

離れていても心の距離が近いこと?

安らぎを与えてくれる存在がいること?

きっと人によって家族の概念は微妙に違う。

国や文化によっても違うし、すぐ側にいる人とでも同じとは限らない。

児童養護施設で暮らす子供たちの描く家族像に考えさせられた。

 

生物的に両親が揃っているに越したことはない。

もしくは自立するまでは親の保護下にいるに越したことはない。

それでもこの複雑な社会は残酷な環境を未成熟な子供たちに与えてしまうことがある。

それを可哀想だなんて簡単に言ってはいけない気がした。

この国はまだまだ恵まれて育った人の方が圧倒的に多いだろう。

恵まれない子供たちに対して可哀想という言葉を発した途端、優劣をつけているのではないか。

人生は運要素であることも否めない。

自分がその立場だったらなんてどれだけ想像しても絶対にわからないことだから、声をかけることさえも憚られる。

ひたすら見守り、応援することが正解なのだろうか。

 

ただ知っているのと知らないのでは大きく違う。

現場のリアル、それは紛れもなく当事者たちの息づかいだ。

接点がないことには考えることも始まらない。

悩みながらもひたむきに生きようとしている姿が美しい。

不遇という負荷は時に人を強く、人生を大きく飛躍させる。

だからひとえに恵まれていることだけが正解だとは限らない。

本当に可哀想なのはいったい誰なのだろうか。

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