以前に比べて仕事としての料理をつくる機会が減った。
お金にならない、生活をしていけない、が主な理由にせよ、長いあいだ料理を生業にしてきたので、やっぱり料理をつくるという行為は身体が感覚でおぼえている。
というのも、仕事で減った分なのか私生活でも料理をつくるようになった。
しかも出汁を取り、土鍋で米を炊き、丁寧に丁寧に。
よく言われるようにプライベートではあまり料理をしたくない派だったから、その変化に自分でもびっくりしている。
食材にも今まで以上にこだわるようになった。
オーガニックなもの、国産なもの、顔が見える買いもの。
時間や気持ちに余裕があると、そういったことにより関心を寄せれる。
さらに大きな変化なのは、そこにお客さんがいないこと。
自分でつくって自分で食べる。
メニューこそ考えるものの、緊張感や焦りがなく好きな料理を好きなだけ食べれるし、盛り付けや色合いも気取らなくていいので、気軽な感じがして精神的にも安定している。
仕事となると、それがいいか悪いかは別として、つくるという行為の文脈が変わってしまう。
お客様の期待に応えないといけないし、喜んでもらわないといけないし、次もまた来てもらえるようにしないといけないし、記憶に残るようなサービスをしないといけない。
いけないいけない、と強制されている訳ではないので誤解のないようにしてほしい。
それが仕事というものだし、文化の醸成にも寄与していることだし、生活の糧になっているので、社会の一員ということは喜びを交換し合うということだから。
人間の営みにおいて、つくるという行為は料理だけでなく様々にあるので、誰しも根元的に欠かせないことのように思う。
想いが宿り、創造を生み出し、表現を援ける。
先人たちのつくる行為によって叡智が積み重なり文明が進歩してきた。
ところが、身体を動かし何かをつくることから現代人は遠ざかっているように思える。
溢れる情報ばかりを追いかけてインプットばかりをしている。
どこまで自分にとって必要なことなのか、脳が処理できる情報はきっと大昔の人間とそんなにかわらない。
つくるという行為はアウトプットだ。
料理をつくる、文章を書く、絵を描く、歌を唄う、運動をする。
他者評価なんて関係なく、自分発信で自己満足のつくるという行為は、幸福度とも密接に関わっているのではないだろうか。