美味しい、という言葉はある意味で曖昧だ。
味覚は生まれ育った文化に影響するし、それぞれの好みによっても違ってくる。
それでも美味しいは世界共通で分かり合えるところがおもしろい。
感覚的なこと、それを表す形容詞、例えば、すごい、おもしろい、楽しい、美しい、可愛いはどこまでも人によって感じ方が違う。
色や音も香りも同じように言える。
数値化できないこと、言語化できないこと、それらの領域はこれだけコンピュータ技術が発達していても、まだまだ人間という生きものにしかわからない。
ところがビジネス界隈では、数値化すること、言語化することが大切だとされていることに少し違和感を覚えている。
もちろん組織を管理したり、物事を共有したり、人生の計画を立てる上では大切なスキルだとは思うけれど、そればかりだとどこか人間味がないと感じるのは気のせいだろうか。
何かのコンテンツに触れた感想が、美味しい、すごい、おもしろい、だけで終わるのはどこかもったいない。
何がすごいのか、どうおもしろいのか、どうしてそう感じたのか、安易な言葉でやり過ごして考えるのを辞めてしまうのはせっかくの人間がもったいない。
考えずに作り手の文脈や背景に思いを馳せないまま次の刺激に飛びつくというサイクルが、まさに行き過ぎた資本主義社会なのだろう。
コミュニケーションといえば多くは言葉でのやり取りを指すことが多い。
先に述べたように感覚的な言葉は人によって認識が違う。
どれだけ連絡事項を綿密に伝え合っても、どこまでも正確だとは限らない。
表情や声のトーン、温度や気分、その場の雰囲気や空間、インテリアや細部に至るまで、人は他にも計り知れないほどの情報を受け取っている。
そういった感覚的なことも含めてコミュニケーションのように思う。
だから言葉だけではなく感覚的な認識の部分も共有できると、より人間としての深い関わりになるように思う。