行為の先にある意味

人は行動に何か意味を求めたがる。

目の前のことに取り組む意味、働く意味、誰かと一緒にいる意味、生きている意味。

意味を見出すからこそがんばれるし、人生にも希望が持てる。

目標や目的、夢と置き換えてもいいのかもしれない。

でも人の人生なんて、今取り組んでいることに意味を感じていなくても、楽しく生きることはできる。

周りの視線を気にせずにただ心の赴くままに自然体でいれること。

むしろあらゆる意味から解放される方が難易度の高い幸福のような気もする。

 

前々から時間があればやってみたいと思っていたお稽古と言われる類の茶道や華道といった習い事。

今のところ稽古をする意味がわからない。

茶を淹れて飲むだけ、花を生けて愛でるだけ、そこにどんな意味や深みがあるのだろう。

わからないからこそ実際に体験して知りたいと思ってしまう。

 

本を読んで納得だったのは、先生がいることと、心技体で学ぶということ。

大人になると誰かから何かを教わる機会は格段に減っていく。

今でこそ料理ももう少し一流の人のもとで勉強しておけばもっと高い技術が身についたように思う。

基礎の大切さ、同じ作業を繰り返すこと。

意味がなさそうに見えることも、型を理解することで見えてくる世界。

心技体で学ぶということは言語化できない領域であることがわかった。

 

もちろん料理だって心技体で取り組むことだと自負している。

同じレシピでも作る人によって味が変わる。

火入れの温度、混ぜ方、タイミング、など言語化の難しい領域は、繰り返しやることで身体が自然と覚えていくことだから。

 

意味ばかりを求めるということは損得で世界を見ているということ。

お稽古には意味を超えた学びが潜んでいる。

それは座学だけではなく自らが行為することでしかわからない意味なのだろう。

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