どこまでが作品か

作品と聞けば一般的には芸術作品のことを指している。

音楽、絵画、工芸品、彫刻、デザイン、建築などなど。

趣向を凝らした料理の一品だってそうだと言いたい。

どれも特定の個人から生まれているのが特徴的のように思う。

手を動かして頭の中の想像を目に見える形にしていく。

そこには意図があり、歴史があり、願いがあり、メッセージがあり、時には個人的な感情も含まれていたりする。

 

そんなことをクリエイティブと呼ぶならば、その能力は人間という生物だけに与えられた特権だと思う。

考えること。

創造すること。

作ること。

表現すること。

感動すること。

自由を望むこと。

誰しもが等しく持っているアーティスト性であるはずなのに、社会を円滑に回そうとするとそんなことも言ってられない。

自分の意思は二の次にして、基準があって、ルールを守り、規則に歯向かわないことが優先されるから。

学校、会社、組織、国家、少なからず人はどこかに属している。

というか、物心つく前からどこかに属していることが当たり前になっていて疑問にも感じないだろう。

 

みんな人間本来のアーティスト性を持っているにもかかわらず、気づいていないか、押し殺しているか、眠っているかしているように思う。

だからSNSが出てきて表現が民主化したことによって、その気持ちよさでここまで広がっているのではないだろうか。

承認欲求の前に表現欲があるという風に。

はじめに述べた個人的な作品の定義で言うならば、SNSの発信もひとつの作品だと思っている。

もっと細かく視座を上げて言うならば、未来を選択していくプロセス、つまり一人一人の人生そのものが、とてもアーティスティックで壮大な作品のように思う。

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