オモテのセカイ

物理的なお店は手放してしまったけど、いちおう屋号を持っている以上、お客様を集めるためには何かしら発信をしないといけない。

主にSNSが主戦場になるわけだけど、今まさに発信者も情報も多すぎて飽和しているような気がする。

個人が自由に発信できることは平等にチャンスが与えられている反面クオリティがいいとは言えず、プラットフォーム側も心地いい環境を作ると言いつつ利益を増やすための動線に抜かりが無い。

だからといってSNSに頼らずに何かを宣伝することがむずかしくなっているということは、プラットフォームの経済圏に支配されているということになる。

SNSは名刺がわりにもなるし、認知の指標にもなるし、何より今までのお客様と連絡のやり取りが蓄積されていることは大きな財産にもなっている。

 

少し前までは、いやお店を始めたばかりの頃は、ここぞとばかりに発信をがんばっていた。

適度な頻度で発信することが認知獲得のための定石とされていた。

桜の写真とそれっぽい言葉を投稿していた過去の自分が薄ら寒い。

昔の写真がダサく見えるように、過去の出来事が未来から見たときに恥ずかしさを覚えるのは不思議な現象だ。

ちょうどSNSが上昇傾向の時代だったので、集客の恩恵を受けたことは間違いない事実としてある。

タグ付けやハッシュタグによる認知の広がりは本当によくできた仕組みだと感心する。

ただプラットフォーム側に支配されている関係性がどうも気に食わない。

それにみんながみんなタイムライン上で着飾っているのが、どこか無理をしているように見えて、本当にこのままでいいのかと問いたくなる。

知らないうちに、気付かないうちに、プラットフォーム、それは国家でもなく一企業に過ぎない枠組みの中に、ある意味で囚われているということだから。

 

評価や承認欲求は本能的に気持ちがいい。

おすすめコーナーも見出したら止まらない。

朝の電車でも画面をスクロールしている人がいっぱいいる。

そして似たもの同士のコミュニティが形成されていく。

一日のうちの結構な時間を誰かの人生に使っているのではないだろうか。

それはつまり対人間とのコミュニケーションばかりになっているということ。

だから人間に支配された生態系よりも、自然の一部としての人間にもっと自覚的になった方がいいと思う。

意識的に人間以外の自然物と向き合わないと、あるべき姿の人間に後戻りできなくなってしまう違和感。

最近特にそう思ってしまう。

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