コロナウィルスの騒ぎが過ぎてもう随分と経つ。
多大な犠牲者を出したので災難ではあったけれど、ある意味でそれを機会に、行動様式というよりも考え方やモノの捉え方が大きく転回するように変わった。
思うようにいかないもどかしさは、退路を断たれたみたいに強制的に方向転換せざるを得なかった。
とはいえ、今までの積み重ねがゼロ(とは言わないまでも)になる感覚は、焼畑農業や断食のように一度リセットすることで新しいものを一から回復させる良い側面もあると思えた。
世界は視点次第でいかようにも変えられる。
正義も悪も幸福も不幸も喜びも悲しみも、正反対のものはすべて表裏一体だ。
どこに立って何を見るか、どう見ようとしているのか。
これからの時代は、そういった視座を上げて物事を俯瞰して見ることが大事になっていくに違いない。
コロナの影響で考えさせられた人はもっとたくさんいる。
すでに文学や映画などに現れているのは、表現するということが表現者の内面の変化をなかば自然と欲するように、そして衝動的に発散している証なのかもしれない。
通底して未来のことや先のことを見るよりも、目の前のことや足下をちゃんと見ることの大切さを謳っているように感じたのは気のせいでもないはずだ。
自分の食べているものはどこから来ているのか。
自分が身につけているものはどこから来ているのか。
隣にいる人、身近な他者、事物に至るまで、しっかりとコミュニケーションがとれているのか。
ネット社会において表面的な関係性は、どこから来ているかわからない食料品にも似ている。
つながっているようで、わかっているようで、どこか空虚な距離のある感じ。
食品に限って言えば、国内だけではなく元を辿れば表示義務の見えないところでグローバルに大きく依存していたりする。
当たり前のように手に取る商品が、本当に信頼できるかについてはほとんどの人が無自覚だと思う。
顔の見える生産者を選択しよう、と言いつつも生活のすべてがそれで補えるにはほど遠い社会になってしまった。
子を養い、世代を引き継ぎ、進んでいくには仕方のないこともあるだろうけど、本当に大切なものは何か、という問いはいつの時代も倫理的なジレンマを孕んでいる。
人間はそもそもエゴのエンジンがかかりやすい仕組みにできている。
何に生かされているのか、人間も生態系の一部に過ぎないこと、結果や達成だけでなくプロセスを楽しむこと。
しっかりと想像して味わうにはあまりにも時間が足りなすぎる社会になってしまったけど、立ち止まってよく観察すると見えてくる景色もまたおもしろいものだ。
大きな気づきは偶然のようで必然にやってくる。