小さい頃に教えられることや、周りの大人に影響を受けることで、世界や物事の認識はある意味で偏りが生まれているし、それぞれの思い込みによってできている。
こうあるべき。今までそうしてきたから。
ものの見方や考え方は一度確立してしまうとなかなかそこから離れて見ることが難しくなる。
特に「働く」や「生きる」や「幸福」や「愛」みたいに概念的な言葉は、根が深く、すでに出来上がっていたりする。
メディアの影響もあるだろうけど。
なので言葉のひとつひとつに「なぜ」「なんのために」と問うならば、その言葉にどう意味づけしているかは人によって違っている。
なぜ働くのか、なんのために働いているのか、働くとはなにか。
生きていくため、守るべき家族のため、自分自身の学びのため、人類の未来のため。
目的や動機は人生のステージによっても変わっていくだろう。
その上で、言葉をどう意味づけしているか、どう解釈しているかを、教えられたままに信じているか、自分の学びや経験から定義しなおしたかで人の考え方は分岐するように思う。
概念的な言葉は時として曖昧なので、自分の頭で考えずに思い込んでいたら楽ではあるけど、違う価値観や意味づけをしている他者と出会ったときに衝突してしまうし、壁にぶち当たったときには選択肢が限られてしまう。
ものの見方を柔軟にすること、多様な意味づけができること、思い込まずに常に疑い続けることで選択肢は広がり、困難にも柔軟な対応ができるようになる。
考えることはすぐに実利としての生産性はないし、脳に負荷もかかるけど、役に立つことは往々にして遅れてやってきたりする。
それが哲学や歴史や社会や心理など、人間そのものに関わる人文知の営みなんだろう。
対象についてどう意味づけするかは結局自分次第だということ。
なぜ働くのかで言えば、お金の多寡はもちろん大事だけど、楽しいに越したことなし、そこに自己投資の要素が含まれていたり、将来の希望につながるような働き方ができていたら、働くことにも前向きな意味が生まれてくる。
幸福で言えば、大金持ちになったり見た目を派手にしたりと大衆と同じような振る舞いをせずとも、自分なりのささやかな幸せを日常に取り入れたり、そんな時間を自分の人生に追加できていたら、幸せはすでに手に入れているよなもの。
人間が欲望で駆動していること、理性で考えることのむずかしさまでを達観して見れると、意外と小さな不満や悩みなんてちっぽけに思えてきたりする。
なにより自分の人生は自分で決めれるくらいの自由が与えられているほどには平和な世の中だと思う。