当たり前のように他人に迷惑をかけるのはよくないとされている。
これは見方を変えれば自らの行動を抑制することと同じ意味にもとれる。
実際に国が違えば、周りに迷惑をかけてなんぼ、と教えられることもあるそうだ。
特に日本は相手の顔色を窺い発言や行動を慎むという控えめな文化がすでにでき上がっている。
そもそも何をもって迷惑行為と呼ぶのだろう。
その基準は時代や社会や文化が違えばとても曖昧なもので、実は行為者というよりも受け手側の感じ方によるところも大きい。
よく聞くのが、親が子供に対して迷惑をかけたくない、と語るのは、介護面や経済面で負担をかけたくない(子どもの人生の時間を奪いたいくない)、という配慮だろう。
迷惑をかけたくないと言いながら、子供の選択に口出しをしたり強要したり精神面で負担をかけていたら、行為者(親)が意識してなくとも受け手側(子供)が迷惑だと感じている。
そのつもりがなくても相手が迷惑だと思うかどうかで迷惑認定が決まるのではないか。
その視点で考えてみると迷惑という言葉は変幻自在でしっかり掴むことがむずかしい。
公共の場で赤ちゃんが泣き喚くとき。
迷惑と感じる人もいれば、その程度なら気にならないという人もいるだろう。
公共の場でカップルのいちゃつきが過度なとき。
どこからが迷惑でどこまでが迷惑でないのか、きっと感じ方は人によって違う。
バイクや車の爆音や夜中に大きな音を出す行為は。
人が流れている駅の改札で急に立ち止まる行為は。
道路交通量が多いにもかかわらず信号のないところで右折しようとして右レーンを塞いでしまう行為は。
日常の中にもちょっとした迷惑行為はあちこちに潜んでいるけど、こうして羅列してみるとそれを気にするかどうかは受け取り方次第なのがよくわかる。
もうひとつ決め手なのは、行為の時間の長さだと思う。
少し我慢すればいいだけ、もしくはその場を避けることができる、ができると迷惑の感度を軽減することができる。
ずっと続いてるとき、ずっとその場にいないといけないとき、それは迷惑に認定される。
行為者が意図して他人に迷惑をかけようとするのは問題外だけど、往々にして意図していない、又は想像力や配慮の足りない人格である場合も多かったりする。
そこまで考えることができると、受け手側の余裕にも関わってくる。
急いでいるとき、思うようにいかないとき、傷ついているとき、心が不安定なとき、ちょっとしたことでも迷惑を受け取ってしまう。
余裕を持とう、が正解かもしれないけれど、受け手ばかりの問題だけではなく、意図しないところで周りに迷惑をかけてることもあるので、迷惑とは長く付き合っていかないといけない。