美味しさは奥が深い。
高級食材だからといって、その値段は希少性も含まれているので高ければ美味しいとは限らない。
納豆や鯖は安くても立派に美味しい食材だ。
調理技術は美味しさと相関してるものの、人が作っている以上、印象や相性が悪ければ味にも影響が及ぶ。
他にも、空間やサービス、体験や関係性も美味しさとは切り離せない因子になる。
だから絶対的な美味しさは存在しないと思う。
それでも食という業界が美味しさという基準を優先して物語を語っていることに少し違和感をおぼえる。
星がいくつとか、雑誌やガイドブックに載っているとか、点数が高いとか。
これらはあくまでも情報や記号で美味しさを計っている。
高級だから、予約が取れないから、せっかく並んだから、美味しいに違いないと脳が処理するようにできている。
だからといって前情報なくフラットに食事を摂ることもむずかしい。
視覚も嗅覚も、あらゆる感覚が美味しさに大きな影響を与えている。
でも、絶対的ではないけれど、できる限り情報をなくした自然状態で、万人が共感できる美味しさが存在する。
そしてそれをコントロールすることも可能だと思っている。
空腹に耐えたあとの食事。
キャンプやピクニックなど外で食べる食事。
旅行や記念日など非日常なときの記憶や思い出に関わるような食事。
茶碗で食べるよりも、おにぎりで食べる白ごはん。
これらは食材や調理技術を問わない美味しさがあるし、誰しもが感じたことのある体験だろう。
ある意味で本当の美味しさは、情報や記号を消費する脳で感じる美味しさではなくて、主体的な体験を伴った身体で感じる美味しさの方ではないだろうか。
もうひとつ現代は、顔の見えない作り手と、サイクルの早いサプライチェーンで、ファスト的な食事が多くありがたみも実感しづらいから、もっと時間をかけて育てたり、関心を寄せることで、より美味しさの解像度が上がるのではないだろうか。
身体を使って時間をかければ、すぐそばに美味しいは存在している。
便利さと忙しさは本当の美味しさを盲目にさせる。