何かにがんばって取り組むことは素晴らしい。
夢中になって、没頭できることがあると人は生きてる心地がする。
でも動機は2種類あると思う。
内側から溢れる純粋な動機と、社会性を帯びた表面的な動機と。
絵を描いたり、工作したり、何かものづくりをする人は純粋な動機からだし、いい大学に合格するためや、いい会社に入ることは、社会でうまくやっていくための動機で他者評価も含まれている。
なにも表面的な動機が悪いということではなく、何にせよ一生懸命に努力したという体験そのものの積み重ねが人間の奥行きをかたどっていく。
その中でも、すぐに飽きて辞めてしまうより、ある程度継続して自分が納得するまでやり切ることが大事になってくる。
やり抜く力、集中する力、継続する力、そういうのをまとめて努力と呼ぶ。
努力はしたらしただけ自分の糧になることは確かだ。
たとえその努力によって目標が達成されなくとも失敗の経験と共に、次のステップのための財産になる。
でも努力にもセンスは必要だと思う。
要点をおさえたり、時間を効率化したり、時には諦めることも必要だったり。
だらだら取り組んでてもも意味がないし、成果も出ないのに続けていても意味がない。
ただ努力を試みた姿勢には誰にとっても意味がある。
よく努力は必ず報われると言う。
きっと先の理由から取り組んだ姿勢そのものは無駄にならないという解釈だろう。
どこまでも努力は自分で認識するものではなく、他者評価によるものだとも思うけれど。
たとえば、飲食業界で長く料理を続けてきてコロナ禍を経験した場合。
自分の采配ではどうすることもできなくなって続けたくても続けられない環境になって、今までの努力は報われたのかと問われると、思うような結果や成果が出せていなくても、家や身近な人に振る舞える美味しい料理はいつでも作れるし、その間に出会った知り合いやお客様との関係において、まだ努力が報われた、と言えるだろう。
このように時代や社会の変化によって、なかば強制的に方向転換せざるを得ないのはもう運要素でしかない。
大型資本で商店街がなくなったように、Amazonが駆逐した街の書店のように、その波には抗えない。
これからのAIをはじめとするテクノロジーの発展は、時代の波を圧倒的に加速させている。
文章も音楽も指示さえすれば自動生成できるし、WEBサイトや簡単なゲームもAIがコーディングしてくれる時代に、その分野で時間をかけて勉強してきた学びが一瞬で流されてしまうような事態はこれからもっと増えていくに違いない。
そうなると報われない努力も同じように増えていく。
社会的ではなく、損得でもない、自分の内側から生まれる純粋に没頭できる趣味を見つけることが唯一の救いではないだろうか。