昔は学校に行きたくない日があっても無理やり行かされたもの。
みんなと同じが正解で、答えを暗記することが正解だった。
整列をして行進をして、少し列から外れると体育の先生に怒られた。
人間の価値もテストや通信簿の数字で評価された。
安定した職業に就くために受験勉強をして未来を選択する。
個性の尊重はずっとずっと後回しだった。
そんな幼少期の教育は、インターネットも普及していなくて、情報源が新聞やテレビしかないので、違う価値観があることを知る機会がなかったのはまだ理解できる。
フランス革命から生まれた国民国家意識による全体統制の流れは、歴史を俯瞰してみると仕方がないのもまあわかる。
当時もそれが当たり前の世界に生きていたから、そこまで違和感なく過ごしていた。
別に後悔もしていない。
でも、学校教育のスタイルそのものが現代もあまり変わっていないのはやっぱりおかしい。
学校に行けない子供が年々増えているのはよく耳にする話だし、今考えると変なルールや規則は今も残っている。
昔ながらのおかたい先生もいれば、現状を変えようとしている先生もいて、時代の性というか一概に先生を悪者にもできないし、国の教育方針も少しずつよくなっているのはたしかだ。
問題なのは変化のスピードが早すぎてルールを作る側の理解が追いついていないこと。
純粋で吸収力のある子供たちは先に身体で反応してしまう。
その狭間で犠牲になっている子供たちと、その親御さんたちの苦悩を思うと切なくなる。
そんな行き詰まりから抜け出す方法が提案されている。
どれも納得のいくものばかりだった。
中でも、このインターネット時代かかわらずそもそも論で大切なこととして、子供の存在そのものを肯定することと、家族以外での安心できる居場所を増やすこと、だとあらためて思った。
そのためにも大人たちの理解と協力をする姿勢は欠かせない。
子供たちの可能性は、誰のせいでもなく、誰のためでもなく、未来のためでもなく、人間の尊厳を考える上で誰しもが取り組むべき課題ではないだろうか。
その結果として、自然とみんなが生きやすい社会になる、が望ましいように思う。