自分にお客さんがいること

料理を仕事にしてずいぶん時が経つ。

そのやりがいとは、やっぱり“つくること”のよろこびと、それが“評価されること”のよろこびだと思う。

もっと抽象化してみると、“自分の手を動かしたこと”で“他者が幸せになること”、だと言える。

もうそれは料理だけではなく、あらゆる仕事という活動のやりがいの本質ではないだろうか。

アーティストも、インフルエンサーも、ふつうの会社員も、レジ打ちのパートの人も。

自分の行為が誰かの役に立っているという感覚。

存在価値。承認欲求。生きてる意味。

それらはとても人間という社会性を持った生きものの定めでもあり根本的な動機だけれど、見ようとしないと見えないものでもある。

見ようとしないと空虚で退屈でネガティブが空いた隙間に入り込んでくる。

それを埋めようとしたり、発散しようとしたりする過程で、自己表現が生まれる一方、間違った方向にいくことが、悪と呼ばれる行為の源泉になっているような気がする。

もっと自分を見てほしいと注意を引く。

でもその行為は他者を幸せにしていない。

料理はわかりやすく評価される。

時間軸が短いし、反応がダイレクトだし、分業ではなく一から十まで携わるひと仕事感がある。

幸せの価値観は人それぞれだけど、“美味しい”で得られる幸せは万国共通でとても身近なものだ。

それでも野菜をつくる、家畜を育てる、魚を獲る、のような一次産業の人たちや、間に入って卸しをしている人たちは、お客さんの反応から距離がすこし遠い。

そう考えると料理をつくる人は直接お客さんと接点があるので、幸せを受け取る量も多い。

もう少し視座を上げてみると、自分のつくった料理に会社の看板ではなく、”自分がつくった屋号”をラベリングできることは、お客さんの反応に対して喜びの量もまた大きい。

もちろん、美味しくなかったり、愛想が悪かったりすると、評価は下がるし、全体の責任も伴うけれど、そのリスクに見合ったリターンは内面的な豊さで言えば限りなく青天井だ。

そしてお客さんとの関係に“信頼”も醸成される。

この一年は料理から少し距離を置いてるにもかかわらず、今でもこうして自分の料理を食べたいと待ってくれている人がいること、自分の料理を楽しみにしてくれる人がいることに、急な朝晩の冷え込みの中、弱火でじっくり火入れをして中心がじんわりと温まっていくように人間してるなあと感じる。

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