さみしい人たち

多様性という言葉や、人それぞれでいい、みたいな言葉は、とても聞こえがいい。

いかにも他者を尊重して互いの価値観を認め合う、のように理想を語られがちだけど、実際に行動できているとは思えない。

尊重どころか、価値観が違い気の合わない人がいたなら、早い段階で線引きをして、それ以上関わらないという姿勢を示している。

本来は違っていてもなお、関わり合い、互いが納得するまで議論するのが望ましい。

そのためにはエネルギーも時間も必要なので、忙しい現代人にはそぐわない。

合わない人は排除して、合う人とだけ関わる方が圧倒的に楽だから。

結局、人間の文明は楽な方に楽な方に流れていく傾向にある。

コンプライアンス問題も同様に、多様性や人それぞれの考え方がそれを助長している。

強く言えない、関わりは浅く、踏み込まずに距離をとる。

尊重という言葉の意味がもはやほんの上澄み部分だけで、大部分において突き放しているようにさえ感じてしまう。

特にインターネット空間は似たような人が結束しやすい。

いかにも居心地がよさそうで、簡単に承認がもらえる環境は、ひとたび外の世界に出たときに弱さや脆さが露呈してしまう。

多様性や人それぞれは裏を返せば、他者に対して優しいようで冷たく、誰かに頼ることはよくないこととして自己責任を問われている。

同質の価値観の輪に入れなければゲームオーバー。

そのようなゲームでは、多少のガサツさと打たれ強さが必要で、繊細で純粋で気配りのできるタイプな人ほど不利にはたらく。

それに年配の人ほど地域で育てられたり、血縁関係のない人に預けられたりなど、他者に頼ってなんぼの世界を生きてきたので、ある程度の度胸が備わっているけど、今この時代を生きる当事者である青年期あたりの若者世代にとって、だれかに頼ることのハードルは相当高いように感じる。

人に迷惑をかけてはいけないという過剰な意識、頼れなさと甘えれなさは自分でなんとかするしかなくて余計に心が孤立していく。

そして何よりもさみしい。

いかに若者たちを孤立させないか。

そのためには否が応でも異質な他者と関わる機会を作るかが大事になってくる。

価値観が合わなくても、気が合わなくても、何か同じ目的をもって一緒に取り組むこと。

教育の是非はおいといて学校という場や、習い事の場というのは、それを果たしているようにも思える。

問題は義務教育を終えた後に、そのような場をどう設計するか。

押し付けではなく、義務にするでもなく、いかに自発性を促せる環境を整えるか。

大人が未来を見据えて長期目線でしっかり考えなくてはいけない問題だと思う。

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