愛の行方

地方に行ってよく思うのは「愛が残っている」ということ。

愛がある、でも、愛を感じる、でもなくて、

残っている、という表現が言いたいことの的を絶妙に得ていて気に入っている。

もちろん愛は量で測れるものではないし、都会を否定しているわけでもない。

あえて、地方と都会を二項対立に置いて愛の関係を考えることで浮き上がってくるものがあると思う。

人間だけに与えられた愛というあたたかい認識は、いい悪いどちらの側面も備わっているけど、心のつながりや安心という意味合いで捉えると何もにも耐えがたい莫大なエネルギーを秘めている。

主にそれは人と人との間にある関係性に使われることが多い。

ひとつひとつの他者との関わりが集まって社会という大きなものを動かしている。

細胞の核に量子が存在するように、等しく人の核にも愛が存在していると思う。

それが便利さや快適さの名の下に、見せかけの愛が世界を侵食しているような気がしてならない。

見せかけの愛はお金と置き換えられる。

人と人との関係性がお金によって希薄になっていることが、都会で顕著に現れている。

地方の個人商店と都会のコンビニのやりとりで接客の質に差があるのがわかりやすい例かもしれない。

ファイナンスの語源が“終わり”を示しているように、お金は人と人の関係性を終わりにする性質がある。

でも愛とお金の本質は同等でない。

愛は状態やエネルギーであるのに対して、お金は目的を叶えるための道具であり手段に過ぎない。

その違いを混同してしまうから認識が歪んでいくんじゃないだろうか。

都会は機械化とマニュアル化を歓迎する。

そして人と人の関係性を希薄化する。

そっとしてほしい時には助かるから悪いことばかりではないのだけど。

地方の濃すぎる関係もそれはそれでめんどくさいし、都会の薄すぎる関係もどこか寂しくて、ちょうどいいところはどこなんだろうとよく考える。

地方にも現れ始めている今どきのちょっとオシャレなお店たちの都市化に愛の欠如を感じてしまった。

そうして人は愛を忘れていくのだろうか。

*欠如(けつじょ)・・・あるべきものが欠けていること

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