言語と感覚

最近は言語化が大事だという風潮がある。

たしかにこの社会は自分の考えや想いを言葉にして相手に伝えることで、意思が明確になりビジョンを共有することができる。

こうして文章にすることや、話すことで思考に輪郭ができるので、人間関係の構築やビジネスをする上で欠かせないスキルでもある。

言語化がうまくできると仕事も私生活もいろいろとスムーズだし有利だし何より生きやすい。

しかし、これをスキルと捉えると訓練すれば上達するかのように言われがちだけど、そもそも得意不得意の領域であるような気がする。

調理技術も基本的にはスキルにもかかわらず、どうがんばっても料理は苦手、という声をよく耳にする。

だから言語化が上手にできることは、先天的な特性によるところが大きいのではないか。

例えば、美術館などで絵画を観るときに何を見ているか、と問われたとき、作者の背景を知りキャプションを読むことで作品を理解する人もいれば、絵そのものを観て筆使いや色使いをただ感じるといった風に、ざっくりと分かれるように思う。

音楽で言うと、歌詞に焦点がいくか、メロディを聴くかの違いのように。

厳密に言えば、どんな物事でも触れるときに何を優先的に見ているか、感じているかは、もっと多岐にわたっている。

言いたいのは、言語化が得意とする人がいる一方で、感覚やビジュアルで理解して、そちらを得意とする人がいるということ。

自分のことを例にするなら、こんなにも思考を言語化しているにもかかわらず(どれだけ書いてもいっこうに上達している気がしない)、料理はレシピにはあまり頼らず感覚で作っているところがあるので、どちらかというと感覚の方を得意としている。

レシピを作るのが苦手だし、人に言葉を使って教えることも苦手だ。

料理を生業にしている人は、こぞって人に教えるのが苦手というのはきっとそういう理由に違いない。

何かの完成形を見たとき、まずはじめにビジュアルが思い浮かびイメージが先行してしまう人は感覚で理解する方に向いている。

反対に言語で理解して人に説明が容易にできるならば言語化を得意としている人だと思う。

悲しいことに今のこの社会は言語優位の特性の人が有利なようにできている。

雄弁に喋り、文章がスラスラと書けて、相手をうまく説得させて、消費行動にさえ導けてしまうこと。

テクノロジーの技術がまたそれを助長していて、ポッドキャスト、YouTubeをはじめとするSNSで活躍できる人は、大体において言語化が上手な人ばかり。

生まれ持った特性にもかかわらず感覚派が世渡りに不利なのは少しばかりフェアな気がしない。

アートに正解がないように、感覚を数値で評価することはむずかしい。

でも感覚で理解する人にしかわからない歓びや豊さがあることも事実だ。

言語化が得意な人にこの気持ちはどれだけ訓練しても絶対にわからないだろう。

しめしめ。

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