悔しさという渇き

ポテトサラダに唐揚げ、キッシュ。

ずっと作り続けてきた定番の仕込みが、これでもう作ることがないのかと思うと少しだけ寂しいような気がした。

それでも同じことを繰り返しすることが合わない性分には常に変化していける方がうれしい。

この店のこの味、こそが飲食店の醍醐味でもあるのに、それを壊してしまうのはお客様目線でないのかもしれない。

他者評価がどうであれ、やっぱり自分の納得できるものを作りたいという欲求は表現者の不器用さそのもの。

なんかもっといろいろとうまくできたのになあと思うけど、その形は明確にはまだ見つかっていない。

考え過ぎと言われるとそれまでだけど、考えずにはいられないめんどくさいやつなのだ。

お客様からいただける労いの言葉も、励ましの言葉も、応援の言葉も、素直にありがたく受け取っている反面で、もっとよくできたのにという悔しさが次へのエネルギーに変わっていく。

どのバランスがちょうどいいのか。

わからないからもっともっと探ってみたいと思う。

よくも悪くも長く付き合ってきた料理は生活の中での身近な存在で、どうしても主観的にならざるを得なかった。

視野が狭くなるとどれだけ趣向を凝らしても一定の域を飛び越えることはできない。

距離を取ることで、世界を客観視することで、視点が増えてまた新たに料理を捉え直すことができる。

やってみたいことも料理と離れることも次の行動の本質に収束する。

飲食業界を俯瞰して見たら何を感じ何を考えるんだろう。

そんな未来の自分と出会えるのが楽しみだ。

まだまだ足りない。

まだまだ満たされない。

もっとよくなるはず。

もっとできるはず。

おそらくいつまでも終わりのない表現欲は常に渇いている。

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