写真にする意味性

美術館では作品によって写真を撮っていいものとそうでないものがあります。
瞬間を味わってほしいのか、拡散してほしいのか、意図は作者それぞれだと思いますが、写真にしてしまうことで意味が変わってしまうことはあるなと思っています。
自然の風景も、人工的な映えポイントも、若者だけでなく幅広い年齢層の人がスマホを手にしたことで、手軽に写真を撮っている姿をよく目にするようになりました。
例えば写真技術のない時代の旅行の目的は何だったでしょう。
誰かと同じ景色を共有する、違う文化に触れる、思い出を思い出として残すのは記憶だけが頼りでした。
きっと一瞬一瞬の時間の密度が濃かったに違いありません。
それがいいか悪いかは別として、早さや効率を得たことで失った感覚があると思います。

写真を撮る本質の目的は二度とこない一瞬を切り取ることだと思います。
かけがえのない瞬間が写せたなら、その感動を伝えたいなら、誰かとシェアしたいと思うのが人間の本能的な欲求です。
それ自体はとても素晴らしいことなのですが、目的が人から羨ましく思われたい、SNSでいいねを集めたいになってしまうと、なんとなく写真にとって残念な気もします。
誰かと共有したいという気持ちと、自己の承認欲求を満たしたいという気持ちには、意味にズレがあるように思います。
実際に、これみよがしな、いかにもみたいな映えポイントが人工的に作られている様を見かけると違和感でしかありません。
仕掛ける側も集客のために消費者受けがいいものを作るという循環にもなっていきます。
カメラロールを見返せばいつでも見られる思い出に記憶の強度はあるのでしょうか。
誰にも見せない自分だけしか知らない美しい一瞬があるのもまた贅沢です。

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