偶然にも立て続けに2回観た。
すごく抽象的に捉えると「AはB、それでもAを選ぶ」という構図だと考察した。
Aには自分の好きな世界観が入り、Bには否定的な意味が入る。
なおかつBには自分もそれに加担している罪の意識のようなニュアンスが含まれる。
私はこう生きることを選んだ、君たちはどう生きるか、という問いかけだと思った。
それでも好きなこと、わかっていてもやめられないこと、心の底から自分が信じていること。
人間だけに与えられた根源的な美意識を忘れてはいけない。
それはクリエイティブなことであり生への原動力にもなりうる。
そう受け取った、そう解釈した。
それでも自分が大切にしたいことは何か、この「それでも」という接続詞が今もずっと反芻している。
周りを見渡せば環境破壊であるとか、日本は終わっているだとか、AIに支配されるだとか、悲観的な知らせが耳に届く。
情報が溢れている今、注意を引くような刺激の強い話題でないと振り向いてもらえないという構造が悪循環に陥っている。
振り向いてもらわないとビジネスが成り立たないので、どうしても煽るようなメッセージが増えてしまう。
一方で世界的にみても貧困は確実に減っているわけだし、格差こそあれ身の回りの生活もインフラも昔に比べれば格段とよくなっている(少なくとも日本においては)。
清潔で快適でセーフティネットも整っている。
何を見るか、どこに視点をおくか、は自分で決められる。
メディアの情報を鵜呑みにしているばっかりでは、どうしてもマイナスの影響を受けてしまうし、情報が多すぎると考える力を奪われてしまう。
100の食材より10の食材の方が料理は作りやすい。
選択肢が多いことと自由であることはイコールではなく、むしろ自由でない。
そのことに心を病んでるのが若い世代の子たちなのではと勘繰ってしまう。
考えることと、そこに至るまでの情報の目利きを養うために、映画内容の事前告知をしないというアプローチだったのかもしれない。
いいことに目を向けようという試みであり、考えることをやめてはいけないというメッセージにも受け取れた。