同じ料理でも味覚の感じ方は、
人によってそれぞれ違うはずなのに、
美味しいという表現で片付くことが多い。
今まで育ってきた風土、食べてきた料理、
興味関心の差で、味わい方は本来異なるはず。
同じ本や映画でも、体験する年齢で
感じ方や捉え方が異なるように。
言葉はとても便利なものだけど、
ある意味、生で感じた質感を矮小化してしまう。
近い適切な言葉に無理やり当てはめるというか。
音だってドとレのあいだに無数の音が存在しているし、
虹だって明確に7色ではなくて、
グラデーションのように色が混じり合っている。
わかりやすくコミニュケーションするために、人間は
便宜上、言葉という入れ物を用意して定義付けしていく。
どんな事象もグラデーションで存在してるのに、
分けて考えることで、世界はややこしくなった反面もある。
人種差別や国境線による分断がそうだろう。
同じように料理の感想も美味しいか不味いだけでは、
語ることのできない領域が存在している。
無理に言葉にしなくていいし、言葉で表現できるものでも
ないし、それは感じるものである。
でも感度を高めるためには、知識や教養が必要だし、
観察力も必要で、それらは経験でしか習得できない。
作り手以上に食べる側の感性も問われる。
言葉と言葉のあいだにある気配を
感じ取るセンスがまだまだ足りない次第です。