護るために作る

朝霧に包まれた山道を登っていく。

雨の残る木々、湿った空気、鳥たちの囀り、静寂、人の気配はまったくない。

雲の中にいるような感じ、生い茂る深い緑から獣は現れるし、帰り道のない異世界に迷い込んだような錯覚はまるでジブリの世界みたい。

名前を奪われるなら本来の自分が立ち現れる不思議。

そこは戦争の時に作られた要塞のあと。

砲台や防空壕の残骸を見ることのできる場所。

これに限らず歴史的な場所を観光名所としてビジネスにしてしまう人間に違和感を覚えながらも、思ったことはそれと別のこと。

(昭和の高度成長期における何でもかんでもビジネスにしようとした人間のエゴとエネルギーについてはまた別で考えたいトピック)

もちろん過去の記憶や痛みに思いを馳せることは大事なこと。

軍事施設を作ったのはいいが、結果的に実戦では使うことがなかったという。

重たい鉄の塊や煉瓦を山の上まで運び、要塞を造り上げていく。

そこにどれだけたくさんの人の労力を使ったのかと想像すると、その苦労はいたたまれない気持ちになってしまう。

国のため、誰のため、愛国心で動いたのか、嫌々労働させられたのか、当時を生きた人たちはどんな感情だったのだろう。

兵士も兵士で訓練を重ね入念な準備をして敵国の攻撃に備える。

そしてかけた時間や労力の全部が使われない。

悲しくなってしまいそうだけれど、決して意味がなく無駄でもないことが複雑な気持ちにさせる。

まさに自衛隊がいい例だ。

国民や領土を護るために、日々訓練をして、武器を磨き、戦いに備えている。

護るために膨大な費用と時間、そこに携わる人の人生が捧げられている。

この先、もし戦争も何も起こらなかったら、それらのすべては水の泡。

これから来るかもしれない事象に対して何かを備えることは、自衛隊だけでなく日々の生活の中にも存在していることが思い当たる。

病院や保険や貯金も同じような性質だ。

未来の安心や安全を今手に入れること、お金で買うこと。

病気や事故がなかったらかけた費用は無駄になってしまうし、大金を遺して急死する場合だってあるだろう。

それでもそれらの備えで買えるのは、本質的に意味のあることや残るものではなく、今現在の安心や安全という「感情」だから。

その感情があることで自信を持って生きることができる。

もっと深く考えてみると、ファッションや教育も当てはまるような気がした。

ちょっといい服やメイクで身を纏うと、背筋が伸びて自信がついていい気分になれる。

本来の物質よりも精神の充足を手に入れている。

教育については、少し違うかもしれないけれど個人的な見解で思っていることがあって。

例えば学校で得られるのは、知識や協調性だと表面的には思われているけれど(実際に大事なこと)、本質的には挨拶をするとか、課題を期限内にこなすとか(宿題)、いい結果を出すためにがんばるとか(テスト)、倫理や道徳など、知識や協調性以上に人として生きるための大切な基礎的体力の方に大きな意味があるのではないかということ。

最近の学校や大学に行っても意味がない風潮になっているのも違和感があったりする。

戦後教育の一方通行な考え方もよくないのだけれど。

それにここで簡単に解決できる問題でもない。

話がそれてしまった。

要するにほとんどの消費が表面的には物質そのもので、それは無駄に終わり意味のないことかもしれないけれど、本来は見えない部分である精神や感情を得ることの方が重要だという気づき。

消費社会、市場経済、ものあまりの時代にそれらがデジタルで代替できるのかが今後の気になるところ。

攻撃に備えて要塞を作ることは意味があったのかもしれない、無駄ではなかったのかもしれない。

それでもそれを作るのにたくさんの人が犠牲になっていることを考えると、どうも腑に落ちない。

全部結果論に過ぎないのだけれど。

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