招かれること

先日、料理家の冷水希三子さんの食事会に参加してきた。

料理教室ではなく、お家に招かれてごはんをいただくという趣旨の食事会だった。

ミーハーなタイプではないので著名な方と会えること自体には、そんなに緊張はしなかったけれど、このような機会は初めてだったので楽しみにしていた。

他の参加者がどのような動機で来ていたのかはわからないけど、だれか特定の人が作る料理を食べに行くという行為そのものは、外食というよりもっと食事の本質を得ているような気がした。

食事ひとつとってもいろんな視点から吸収できることがたくさんある。

味の良し悪しはもちろん、作り手の発想や食材の組み合わせ方や器選びや盛り付けや料理に対する思想性など。

出てきた料理はとてもシンプルでどれも食材がもっとも食材らしい形で表現されていた。

極論、だれでも作れる料理と言ってしまえばそれまでだけど、お家ごはんとはそもそもそういうものだとも捉えられる。

だれでもできる。

当のご本人もそうおっしゃっていた。

料理は食材がいいものであれば基本的にあれこれ手を加えなくても美味しく仕上がる。

それでも味の入れ方や火加減はある程度の知識や経験は必要だけど、本質的に料理は食材がある時点ですでに完成されている。

料理人の役割はその過程でそっと手を差し伸べているだけにすぎない。

それが可能なのは、やはりお家ごはんと外食との違いから生まれている。

外食はエンターテイメントとしての要素が強い。

当たり前に場所代、人件費、インテリア、施工とお金がたくさんかかっている。

いかに魅せるか、いかに人目を引くか、いかに料理に工夫を凝らすかに焦点が当たるようになっている。

投資したお金を回収しないといけないという目的が必然的に生まれてしまう。

よっぽどの技術でない限り、食材を焼いて、塩をふっただけの料理店は成立しないだろう。

そんな想像から食事の本質はお家の中にあると思えた。

主役であり主役でないような料理という立ち位置。

間にあることで会話が生まれる装置であるならば、その料理に飾りは何も要らなくて一番美味しい状態で食べれた方がいい。

そこに経済合理性は介入しない。

余計な心配事のない世界は家のテーブルの上にあるのではないか。

少しの工夫で驚きが生まれる。

お客様をお家に招くように自然体で料理ができればいいなと思えた。

それに招く招かれるの関係性は、対お客様ではなく人のあたたかさに一歩踏み込んでいる。

まさに目の前の冷水さんはだれよりも自然体だった。

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