何か楽しみがあること、ワクワクするようなこと。
そこにはモノやコトの対象に対する自分の期待が含まれている。
特に今まで体験したことがなくて想像できないような類だと期待値は膨らむ、と同時に不安もまた混じってくる。
期待の度合いは人と比べられないのでどこまでもわからないものだけど、誰でも何かの対象に対して期待と不安のバランスを常に予測しているように思う。
何かの出来事に自分の期待を上回るに越しことはない。
それは相手の思いやりなりサービスが伝わったということだし、お互いにとって幸せなこと。
でも一方で自分の期待を下回わることも多々あるだろう。
飲食店を例に挙げると、期待より料理が美味しくなかったとき、期待よりサービスが悪かったとき、期待よりお会計が高かったとき、などなど。
たとえお店側が全力を尽くしていても、お客様自身の期待値の度合い次第で喜びも失望も生まれ得る。
これはお店側としてお客様が抱いている期待値までは関与できないということ。
結局のところ期待値というのはあくまでも当事者が調整できる範疇ではないだろうか。
不快感やクレームが生まれる仕組みはまさに期待値の差異の大きさが原因だとも言える。
過度な期待、もしくは今まで慣れ親しんでいた環境に変化があった場合、少なからずお店側の不備よりも両者のミスマッチがタイミングよく出会ってしまった結果なのかもしれない。
当事者の立場になって考えたとき、特に意識していなくても自然と対象に期待してしまうもの。
モノであれ、コトであれ、人であれ。
人の場合がなかなかに厄介だ。
自分の行動に対してこう返してほしい、同じ場合自分ならこうするのに、といった具合に、自分の世界観や思い込みを基準に考えてしまうもの。
相手の立場、相手の基準を配慮することは、関係性を築けていない場合は特にむずかしい。
相手の生い立ちや文化を理解しようと思ったら時間もかかってしまう。
だからと言って誰に対しても期待をし過ぎないに越したことはないけれど、それでは心が通っていない人間になってしまいそうな気がする。
相手に想いを寄せるからこそ生まれる期待もあるはずで、その期待を超えてくる反応があった時の喜びはやっぱり何物にも耐えがたいもの。
多様性を大事にしようと叫ばれる中で、自分とは違う環境にいる人を理解しようと試みるのはそう簡単なことではない。
自分の思い込みから一度抜け出して、相手の世界に入らないといけない。
深い教養も必要になってくるだろう。
どれくらい期待するのか、どれくらい期待しないのか。
つまり自分の気分をコントロールできるのは、自分自身でしかないのだ。