理解を示してくれる他者の存在

本当の意味で自分のことを理解してくれる人はどれくらいいるのだろう。

家族、友達、恋人、聞こえのいい入れものはたくさんあるけれど、果たしてどこまで自分をさらけ出せているのだろう。

家族とはこういうもの、友達とはこういうもの、といったテンプレートこそあるものの、人によって捉え方に違いがあるように思う。

その一般的な型のようなものが“ふつう”と呼ばれるやつに違いない。

価値観や考え方、言葉の概念も時代や社会によって変わっていくのに、“ふつう”というやつはあまりアップデートされない。

身体にしみ込んだ慣習はやっぱり居心地がいいもの。

変わることにはエネルギーがいる。

小さな違和感に疑問を持たないと、頭は凝り固まっていく一方だ。

「そういうもの」「前からそうだから」というフレーズで片付けていく。

だから本気で相手の立場になって考えて理解しようとすることは、相当むずかしいことのように思う。

そんな人が身近にいるだろうか。

そんな人が一人いるだけで、見てる世界はガラッと変わるだろう。

マジョリティだとか、マイノリティだとか、どんなカテゴリー分けをしても、多数派と少数派が生まれる仕組みになっている。

この世界で生きていくには多数派でいる方が圧倒的に生きやすい。

みんなと同じでいる方が安心で安全で安寧だ。

あずかり知らないところでマイノリティに振り分けられてしまった場合は、仕方なさを受け入れてやり過ごすことが唯一の解決法のように思う。

生きづらいのはやまやまだけど、同志が見つかった時の深いつながりは何ものにも耐えがたいだろう。

しかし少数派だけに、その同志がなかなか見つからないのがネックになる。

見つからなかったら見つかるまで探す、というのが最適解なんだろうけど、その過程でつまずいてしまうのが現状のように思える。

インターネットによってつながりやすくなったとはいえ、マジョリティの情報で埋め尽くされているような気もする。

厄介なのはマジョリティがマイノリティを排除しようとすることだ。

小さき声をどのようにして拾うのか。

また理解を示してくれる人をどう見つけるのか。

やっぱり人は人によって救われるのだと切実に思った。

関連記事

  1. 職人と偏り

  2. 何度でも

  3. 今日も変わらず

  4. 全集中の時

  5. 経営失格

  6. はじめての本づくり