まちがえを許容する

間違えは嫌われる。

学校でも、家庭でも、仕事でも、どんな場面でも間違えることはよくないとされている。

でも人は間違わないことには成長しない。

経験をして反省をして、次はそうならないように気をつける。

ある意味で人生はそんな繰り返し。

だからと言って年齢を重ねれば重ねるほど人間が成長しているかと言うとそうでもない。

やっぱり新しいことに挑戦する行動の量なのだろう。

ぬくぬくと同じ場所で居心地よく過ごしていたら思い込みが強くなっていく。

気づけば自分のいる場所が正解だと思えてくる。

安心安全でいたいという本能と、よりよく生きたいという本能は、互いにアンビバレントな性質を孕んでいるような気がする。

相手の間違えで自分が直接的に割を食うことはやっぱり辛い。

育児でも仕事でも教育者としての役割でフォローアップすることは誰しもが通る道だとは思うけど、そんなとき自分に許容力があるかどうかを試される。

自分なのか、相手なのか、会社なのか、未来なのか、優先順位の選択を迫られる。

おそらく相手の間違えを心から許せないときは自分の度量の狭さを物語っている。

相手が次に間違わないためにはどうすればいいかを一緒に考えてあげることが教育者として振る舞いだ。

間違えを考える上でやっかいなのが“一貫性”という言葉だと思う。

言ってることとやってることが違うとき、周りは間違えていると指摘してくる。

誰しもが自己矛盾を孕んでいると仮定したらどうだろう。

実際往々にしてみんな気づいてないだけで言ってることとやってることが違うという見解でいる。

一貫性のあることが正義ではなく、環境に適応していく方が生物として理にかなっている。

それに加えて周りから見て一貫性のないことでも、本人の根っこでは一貫性があることもあったりする。

相手に耳を傾け寄り添うにはあまりにも時間に追われている社会になっていることがどことなく悲しい。

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