その裏にある大切

何かとオンラインで人と人がつながれる世界になった。

コロナ禍を経てそれが正解と思いきや、実際に会うことの方が大事だという意見があったり、そうこうしているうちにいつのまにかオンラインが昔からそこにあったかのように日常に溶け込んでいる。

最近ある講座を視聴するのに、現地に行って動画を見るか、自宅でオンラインで見るかの選択ができたのだけれど、あえてそのためだけにわざわざ電車に乗って現地で動画を見ることにした。

どちらの選択もオンラインに違わないから受け取る情報としての差はほぼないにもかかわらず。

でも、同じ時間に同じ空間で自分以外の誰かと同じ体験をして同じ目的を共有できたことは、オンラインでは決して叶わない。

感想を言い合って意見交換ができると、得た内容もより自分ごとになっていく。

たとえ会話を共有することがなくても、後々あの時のあの場所で一緒だったことが新しい出会いにとって有効になってくるかもしれない。

もしくは電車代や貴重な人生の時間が無駄に終わるかもしれない。

この、かもしれない、という不確定要素をいかに排除するかが現代の生産性や効率を重視する傾向に結びついている。

生産性や効率について考えるとき、いつも明確な答えには辿りつかない。

無駄をなくすこと、何が無駄で何が無駄でないのかの判断はすぐにできないように思うから。

先の事例のように時間軸を加えて考えてみると、今の無駄が後になって役に立つことがあったりする。

読書なんかがいい例で、すぐに役に立たないことが多いし、どんな内容だったか忘れてしまうことも多いけど、その行為がなければ、その材料がなければ、後々生まれるいい発想も基礎から構築されていかない。

わかりやすいのは身体のパフォーマンスで、健康にいい食材は決して安くないけれど、長期的に見るとお金の無駄にはならないと思う。

そして誰かと同じ体験を共有することも生産性や効率だけでは語れない大切なことがある。

なんのために学校に行くのか、という問いをよく聞くけれど、勉強の部分である将来に役に立つためや、基礎的な教養を身につけること以上に、友達と遊んだり、ときには喧嘩したり、いろんな行事に協力して参加したり、授業中にサボることを覚えたりなどが案外、人間力を形成していく。

若いうちに許される範囲で何か痛い目に合うことや失敗することは後々取り返しもつく。

無駄を見極めるのはとてもむずかしいけれど、時間軸で見たり、誰と共有するかの視点で見ると、また選択の幅が違ってくるのではないだろうか。

今までのどんな無駄もどんな過去も、誰しもが今を作っているすべてなのだから、結局無駄とは何だろうと答えは今日も見つからないまま。

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