場としての食事

あらためて思うのは、食事をするという行為があって人と人が集まり会話が生まれ、その場所があってこそ会う約束のきっかけにもなるし、何か新しいことが始まること。
ただ話すだけなら電話やメールだけで済むのだろうけど、実際に人と会って話すことはやっぱりなんとも言えないような満足感がある。
コロナによって会って話す必要性が薄れてきたとはいえ、ズーム飲みがいまいち盛り上がらなかったように、多くの人が直接会って話すことの大切さを感じていておかしくはない。
それでもデジタルネイティブな世代が辿る未来はわからないけど、まだまだ人口ボリュームの多い高齢層の世代からは共感を得れるはず。

友達や恋人と遊ぶ約束をするにしても、食事をする場所を決めることはきっと欠かせない。
それって当たり前のようになっているけど、その場所を提供している人たちのおかげで、多くの人々の休日が楽しいものになり、人生が豊かになっていると言っても過言ではない。
誰しも一番身近にある食事だからこそ日常に変化がないとつまらない。
そこに色をつけ彩りを添える飲食に携わる人たちの気持ちや想いを大事にしたいなあと思う。
もっと深く考えてみるならば、食事というのはひとつのツールにしか過ぎなくて、本質は人と人が出会う場所を提供している仕事でもある。
人間という字が、人の間と書くように、人と人の関係性があってはじめて人間たらしめているのではないか。
けっこう大切ないい仕事だと思っているのだが、社会からの評価はあまりよろしくない現状だ。

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