アートが好きでよく美術館には足を運んだりするのだけど、いまだによく「わからない」ものとして捉えている。
いや、何事も「わかった」と思った時点でわかってないような気もする。
わかろうと試行錯誤する行為にこそ人間らしさが含まれているのではと。
作者がどんな意図を持って製作物に取り組んだのかを想像して解釈をする。
自分の経験値や鑑賞するタイミングによっても受け取り方は変わるはず。
解説のない作品から自分は何を感じるかが試されているようだ。
往々にしてアートは正直なところ難解でよくわからない。
それでも惹きつけてやまないのは、それだけのエネルギーが宿っているからだと解釈している。
クリエティブ作品における解説の必要性は議論のわかれるところ。
鑑賞者に解釈の余地を与えるのも奥が深くておもしろいし、しっかりと丁寧に説明されるのも理解が深まっておもしろい。
個人的にはあるがままに感じ、わからないままにしておくのが好き。
意味のなさや時間の空白に大切なことが隠されているような気がするから。
それを体験した事実は記憶に残っていくので、たとえ自分の意識では忘れているようなことでも後になって役に立つことがあると思っている。
蓄積されていくという感覚。
役に立つという表現がそもそも恩着せがましいかもしれない。
そう考えるとアートの鑑賞だけでなく、いろんな新しい体験も同類で、意味のないことや無駄なことでも、それなりに記憶には確実に刻まれている。
その記憶の蓄積があることで生まれる発見は必ずあると思う。
それにわからないからこそわかりたいと思う動機の中にクリエティブの源流が存在しているような気がする。
気がするだけで本当のことは何もわからないのだけれど。