世の中は作為に満ちている。
メイクもステータスもブランドも他者からどう見られるか。
相手にこう思ってもらおうと与える側が意図していたり、消費を促すために恣意的な行動を取ったり、資本主義社会は利益を中心に動いているのは紛れもない事実。
それが人間の本能に基づいていることも十分にわかっているつもり。
エンターテイメントやショッピングは、最低限の衣食住を除けば本来は必要のないもの。
それでも人々は喜びや感動の共有を求めてそれらを消費して文明は発達し豊かさも手に入れた。
等しく幸せであっていいはずなのに、なぜだか窮屈に思える時があるのはなぜだろう。
ふと人知の及ばない無作為な世界に目を向けると、そこには自然が広がっている。
引力で変化する海の満ち引き、山の稜線が描くなめらかな弧、太陽の加減でうつろう空のグラデーション、不思議な形に削られた岩肌、光で揺れる水面のきらめき、数え上げてもきりがない。
そんな自然が美しいと思う。
長い時間をかけて培われたことを想像するとより心がふるえる。
自然発生する現象に美意識を感じるのは自分だけではないはず。
自然を美しいと思える心は誰にでもあるはず。
そう思えないのであれば日々の生活に追われていることと同義なのかもしれない。
人が不思議と自然に共鳴するのはなぜだろう。
本当の意味で人が自然体になるときっと社会は円滑に回らない。
わがままで自由奔放で身勝手な行動が溢れると秩序が乱れてしまう。
それでもギリギリのところで自然体を保っていたい。
(個人的に自然体だとどうしても資本主義社会をディスってしまいがち)
美意識を忘れそうになったら定期的に自然と触れる機会を作らないといけないと思った。
社会や作為に毒されてしまうと空っぽな人間になってしまうのが怖い。
それに抵抗できるのは“考えること”だと信じている。